2011年1月1日土曜日

RECORDS

TOJ2010伊豆ステージの終了後、

各チームのテントを巡って、レース後の選手の表情を撮影していました。

翌日は最終の東京ステージ、しかも内容がクリテリウムとあって、総合の大勢はほぼ決定しており、多くの選手の表情は、どちらかというと穏やかな印象でした。

ただ、TEAM NIPPOのテントだけは違っていました。

宮澤崇史選手は、このステージでのチームの方針に納得がいかない様子で、激高し、監督に激しく意見していました。

その発散される熱量はすさまじく、誰も周りに近づけない状態でした。

僕はその熱量に威圧されながら、でも、その表情に魅入られたようにシャッターを押し続けました。


TAKASHI MIYAZAWA   : Le Blanc Suprême-86


帰宅し、Flickrに選択データをアップロードした後、宮澤さんの激高されている場面を撮影した事について、かなり悩んでいました。


僕の中で、宮澤選手のイメージは、真のプロフェッショナル。

それは、職人的な意味合いではなく、「魅せる」事も視野に入れた、真のプロアスリートの姿だと思っています。



そんな宮澤選手が、激高した姿をファンに見せたいと思うだろうか?



それは絶対にない。

彼の中では、おそらく厳密なセルフイメージがあり、それを崩したいとは思わないはずです。

僕が報道関係者だったら、このシーンを撮影する事はなかったと思います。

それは選手との阿吽の呼吸であり、そのルールを守る事によって信頼関係を築くものだから。

では、なぜ、僕は撮影したのか?そしてFlickrに公開したのか?




パパラッチのように「ピーピング・フォト(のぞきみ写真)」に価値を見いだしている。




その疑念がずっと頭にあり、TOJの後かなり引きずっていました。


ただ、僕が断言できるのは、僕がこのシーンを撮影したのは、

「美しい」

と思ったからです。

「怒る」

という行動は、とてもエネルギーのいる行為です。
生活していて、本当の意味で怒る事って、ほとんどありません。
多くの場合、怒るより説得した方が効率的だし、エネルギーの損失もない。

だから、激高する宮澤選手を見て、そこまでの(ある意味常軌を逸する)熱意を、「勝負」というものに傾けているんだ、と痛感しました。




宮澤選手にとって、そのステージは、
「消費した通過点」
ではなく、
「勝てる可能性をみすみす放棄した失態」
だったのです。





でも、写真には

「激高している状態」

だけが記録される。それをどう受け取るかは、受け手次第。

考えているうちに、どんどん深みにはまってしまい、かなり苦しくなったので、弱気になっていた事もあり、観戦歴の長い知人に相談しました。

知人の回答

「確かに報道で使われる写真ではないけど、これも記録だと思う。」


「写真には日付が残るでしょう?それが公開されている事は、後になってきっと価値がある事だと思う。」


「宮澤さんは、この時、どんな気持ちで怒っていたんだろうね?って、きっと後から誰かが思う。それだけでも、記録の少ないロードレースにとっては意味がある。」


その時までずっと忘れていたんですが、写真の基本特性は

「記録を保管する」

事だったんですね。

時間を静止させ、日時を記録し、今では場所まで記録できる。

その時まで、自分にとって写真を記録として思った事はなく、絵筆とか万年筆みたいな感覚でした。


僕の写真は「アート的」と評される事が多く、撮影した写真はその「素材」と見なされる事が多い。

でも、たとえ「素材」であっても、その「素材」が

「本質的に記録特性を持った写真」

である事には変わりがなく、見る人に対して、なんらかの記憶の媒介になるという点では、報道の写真と同質なのかもしれません。



後に、あるサイクリストが、僕が撮影した本人の写真を見て



「その時に考えていた事を、ありありと思い出した」



と評されたのも、その結果なんでしょう。

報道の写真は、レースの流れや時間軸を記録し、僕の写真は、もっと皮膚に近い、痛みや、迷いといった感覚を記録しているのかもしれません。


自分が100%邪心なしでその写真をとったのかは、正直、今でも自信がありません。

でも、その話を聞いた時に、なんで自分がレースの写真を撮影して、記録し、残すのか、少し理解できたような気がします。




最初は自尊心から。

次第にいろんなサイクリストと接するようになり、彼ら彼女らの生きている世界を見て、



「サイクリスト達が情熱を傾けている姿を記録し残したい」



という気持ちに変容していったんだと思います。

仕事で建物や、ソフトウェアを設計したら、それは見える形で残ります。

でも、ロードレースの場合、あれほど過酷な状況で戦っているのに、記録に残る事ってとても少ない。

それって恐怖だと思うんです。




僕が自転車に競技として乗る事に関心を示さないのも、



「自分はアスリートではなく、記録し、サポートする立場」



という厳密な線引きがあるからだと思います。




興味がある対象に、主体として関わりたいと思うのは、人の自然な欲求です。

アスリートや天才的な才能を持つ人々は素晴らしいけど、特殊な才能のある人だけStand Aloneで存在している訳ではない。

それをサポートする人、応援するファン、全てがユニゾンになって系(system)が構成される。

そう考えたら、初めて、自分の立場に、少し自信を持つ事ができました。

葛藤し、悩んで進む事は、アスリートもフォトグラファーも同じ。




肖像写真は、本質的に「罪」である事には変わらないけど、、自分の立ち位置を見失わなければ、もうちょっと続ける事はできそうな気がします。


僕は元々とてもメンタルの強い人間だと思っていたのですが、写真を始めてから、いろんな弱点が剥き出しになり、びっくりするほどセンシディブな反応に驚く事も多いです(笑)

どうしても自分で消化しきれず、アームストロングの誠実さと同数しかいない希少な友人に話す事もあります。



ただ、それは逃げているのではなく、自分の中の考えを昇華させるストレッチだと思うんです。(往々にして言葉が足らないのですが(笑))




今度、あなたに、そういう機会があれば、身の不運だと諦めて、そのストレッチに付き合っていただけると、とても嬉しいです(笑)


Happy New Year.