2011年5月26日木曜日

Der Spiegel

写真を撮影される事を好まない人は多いです。

そうおっしゃる方のお話を聞くと、

「写真はあまりに客観的で残酷です。私は写真を撮られる事は恐ろしい。
 特にあなたには【真実】として晒されるようで恐ろしいです。」


またある方は


「あなたの写真は暴力的で自分の視点しかない。
 特にあたなには【虚構】としてねじ曲げ、晒されるようで恐ろしいです。」




僕自身、写真を撮られる事が好きかと問われると、そういう経験自体がないので、なんともいえないけど、別に自分の写真は飾りたいとは思わないですね。

面白いのは、ある人にとって、写真は「残酷な真実」であり、
ある人にとっては「悪意ある虚構」である事です。

写真は単なる光学的な記録。それをデジタル・エンハンスしたとしても、無からの存在を作り出しているわけではないので、それは【鏡】と同じであるとも言えます。


人は毎朝鏡を見ます。鏡をのぞく時、人は自分の意志で角度を作ります。

おそらく、自分で鏡を見て恐ろしさを感じる人はいない。

でも、他人の意志による鏡は、自分の意志の及ばない鏡で、それは恐ろしいのかもしれない。

他人である僕が、とても良い表情だと評したところで、本人は隠しておきたい事実かもしれない。


僕がなぜ、シンプルな人のポートレイトの撮影が好きかというと、どの人の、どの表情にも、その時のフォトグラファーと被写体の関連性が表れ、まるで群像劇を見ているように想像力がかき立てられるからです。

人の写真を撮影する事は、やはりどう言葉を飾っても、人の権利を侵害する事には変わりがない。

ブレッソンが晩年に言ったように、だから、相手への敬意を持って接したい。

「敬意を払うなら、あなたが撮影をやめるべきだ」

とも言われるだろうけど、波及する全ての可能性を考えたら、もはやなにかを表現する事も、言葉を発する事も出来ません。
(「被災者の気持ちが分かりますか?」という人が、被災者でないように」)


「ポートレイトは本質的に罪である」

というのは、ずっと思っている事です。

自分の行為を「正義」と思ってチカラを執行すると、それは暴力にもなり、客観視も出来ません。

だから、正解の出ない問題であるなら、せめて懐疑的に自分を反証し、振り返りつつ自分の道を進んでいきたいと思っています。

僕は「良いもの」を生み出すわけでも、「格好いいもの」を生み出すわけでもない。

全ての行為は自分の【鏡】であり、ポートレイトが被写体の鏡であるように、フォトグラファーの心の【鏡】でもあるんです。






MAKOTO NAKAMURA :Le Blanc. /w Silence

Artemis in the Raina>


Life is Just a Dream, You know. : Blue

2011年5月12日木曜日

As a Professional Way

一つの道を追求してその最高位を得た方。

その方が仰っていました。

「プロというのはその道で生活できてプロ。私はそれが出来ていないからプロではない。」

またある方が仰っていました。

「写真を撮ってそれを人に見せて、それだけだと意味がないでしょう?
作品として自信があるなら、それをお金に出来て始めてそれが作品の評価なんじゃないかな?」



プロフェッショナル(Professional)の意味は、

[形容詞として]
1.職業(上)の、職業的な
2.専門職の (知的職業の)
3.くろうとの (対義語)amateur

[名詞として]
1.(知的)職業人、専門家、プロ選手
2.(仕事の)熟練者、くろうとはだしの人

となります。


僕の以前からの疑問は、Professional Way というのは、必ず収入を伴うものでなくてはならないのか?という疑問でした。

もちろん、[収入を得る手段=低俗]というプッチーニのオペラに出てきそうな貧乏な画家の台詞ではありません。

Professionalである事に、収入が必須条件か?

という素朴な疑問です。


そう感じたのは、以下の事例からです。

1.業界平均以下の能力を持つ職業的組織人。
        日々組織、メソッド、自分を変えようとは思わない。
        望みは安楽に現状維持
        だが、その人の生活は、職業の収入で成り立っている。

        その人はプロか?

2.業界平均以上の能力を持つ職業的組織内システムエンジニア。
         彼は震災の寄付を募るWebサイトのシステムを構築する。
        望みは被災者への少しでも多くの寄付金。
        そして日々そのサイトの発展の為に努力する。
        だが、彼はその構築からは収入を得ていない。
        完全なるボランティア。

        その人はアマチュアか?


その疑問の為、以前から興味があったP.F.ドラッカーの「プロフェッショナルの条件」を読んでみました。


本の内容というのは、人それぞれの判断によって違うので、あえて内容の紹介はしません。
ここに書くのはあくまで、僕が感じた感想です。

複数のプロフェッショナルの定義があげられていますが、僕が感じる所があった
「プロフェッショナルの条件」。


1.結果を出す

        結果を出さない行為が趣味です。

2.イノベーション(変革)を続ける

        結果が奇跡によるものなら、結果は再現不可能で、それはアマチュア的です。
        原因を分析し、再現可能な状態にして始めてプロフェッショナル的手法です。

3.社会からのフィードバックがある。

        結果が自己完結したらそれは、やはり趣味であると思います。
        フィードバックは様々な形態があります。

        (a)報酬等、兌換性のある価値での補充
        (b)名声、応援、感謝等、兌換性のない価値での補充

        
人は必ず社会とつながっており、出来れば社会に貢献出来る人間でありたいと願っています。

職業は「価値の生産」でもあり、社会に価値を生み出して、社会に貢献し、そこから得た報酬により税金を支払い、また社会へ価値を拠出します。

ボランティアは直接的社会への貢献であり、そこから得る報酬は、不定形の兌換制のない価値です。
無報酬故にそれは「趣味人の娯楽」かというとそうではなく、職業と同じように社会に価値を創出しています。

スポーツの場合、結果を出す事により、自己と取り巻く社会(ファンであり、コミュニティーである)に価値を創造しています。
結果を出す事により、それは十分、プロフェッショナルな行為と言えます。



個人的な感想。

収入を得る為の職業は、自分の持つスキルの中から、最大の投資効率を持つものを選択すべきだと思っています。

例えば僕の場合、それが写真の撮影ではないという単純なお話です。
それは取り組む姿勢が劣っているとか、そういう問題ではありません。
自分の強みを最大に生かせて、かつフィードバックが最大のものが、今の職業だからです。

なぜ、人はボランティア等の手段を通じて社会に貢献したがるか?

職業という世界の中だけでは、時に自分を客観視する事が難しい事もあります。
常に追い風という事はあり得ない。

その時に、自分は別の手段でも社会に貢献出来る、という実感があると、それは人生の幅であり、心のゆとりでもあります。

社会的価値の創出は仕事からだけではない。

これは趣味を持つ事が人生を豊にする、という事ではありません。

社会に貢献出来る手段を複数持つ事が人生の選択の幅を広げる、という意味です。

人によっては、職業よりも、スポーツや写真や、あるいは舞台等の比率を高めたい、という場合もあるでしょう。

理由は

1.対象のコミュニティーからのフィードバックを得たい
2.対象のコミュニティーの中での地位を確立したい

という場合であり、この目的の為に、職業の比率を減らし、生活サイズを縮小するという選択でもあります。
(劇団の人とかがそうですね)

その領域を職業にしている人にとっては

・プロフェッショナル=職業的

であり、対義語が

・アマチュア=未熟で価値の劣るもの


という図式になりがちです。

だけど、人が求める価値は違い、その分野を追求する姿勢と、その品質は、兌換的価値の取得に依存するものではありません。



自分の中の目安は

「思考が安定を求めたら、それはプロフェッショナルとしての危険信号」

だと思っています。



一面広がる平野の中で、自分の位置を常に確かめながら、少しずつ進む選択こそプロフェッショナル的姿勢です。



Field of Yellows 35

2011年5月7日土曜日

sēpia

モノクロームと聞いて、多くの人が思い浮かべる色はセピアだと思います。

セピアは元々、イカの墨から作られる絵の具の意味だそうです。それがあの甘い褐色の色彩になるんですね。

モノクロームは単一色彩表現という事なので、色は別にショッキングピンクでも、ヴァイオレットでもいいのですが、伝統的にモノクロに使われる基本トーンは

ブルー
銅(カッパー)
セレン
セピア
イエロー

の階調で再現される事が多いです。
モノクロフィルムの特性なのか、焼き方から来ているのかは分かりません。

「サイクリストの肖像」をモノクロームで初めてから、様々な色調を試してきましたが、セピアだけは、昨年暮れまで使う事がありませんでした。

写真の素人から見て、モノクロ写真というのは、とても難しそうだという認識がありました。

モノクロの写真は、モノクロームになっている(だけ)のものもあり、なんというか焦点がぼけている感じがしたのです。

モノクロームになっている事が目的で、インスタントにモノクロームの記号(アンティークさ)を纏っている感じです。

モノクロの写真で最初に印象に残ったのは、大学生の時に美術館で見た、ロバート・メープルソープによる様々な裸体の写真でした。

とてもソリッドで力があり、その時までモノクロというと、過去のパリ万博とかの写真、ぐらいのイメージしかなかった僕のモノクロに対する見方を変えました。
(かと言って、写真をしようとはずっと思わなかったのですがw)


たぶん、それもあって、アンティークと密接に結びついている色であるセピアを選択しなかったんだと思います。

それを選択する事で表現が弱くなると考えたのです。


「サイクリストの肖像」で、初めてセピアを採用したのは、宇都宮ブリッツェンの廣瀬選手の写真でした。


YOSHIMASA HIROSE   :Le Blanc Suprême-48


このシリーズに取り組む時は、ライブラリの中から写真をブラウズして、インスピレーションを感じた写真の印象を、一番表現できる色調とライティングを考える事から作業が始まります。

通常、この作業は15分に満たないのですが、この写真はとても時間がかかりました。

様々な色とトーンを考えてみてもしっくりせず、1時間考えて、最終的に選択したのはセピアでした。

その当時は、どうして選択したのかよく分かりませんでした。

なんとなくしっくりきたから、としか分かりませんでした。

今思うと、廣瀬選手の持っている「艶」みたいな雰囲気を表すのに最適な色だったんだと思います。

セピアは対象の質感にもよるのですが、奥行きとMellowさの色です。

使ってみると、当初、そんなに毛嫌いしていたのが嘘みたいに、自分の求めるものにしっくりきます。焦点の定まらない感じもしません。


面白いですね。

セピアを避けていたのは、

「モノクロームの象徴への反発」

という僕の主観。自分の都合と思い込みです。


でも、

「被写体に一番最適な色、そして自分が感じた印象を表す」

のがそもそもの目的だったのに、それを忘れていたんです。それを忘れて、自分だけの視点だったんですね。

簡単に言うと、

「反逆する事(変革である事)がクール」

だという青い気持ちを持っていたんです。

連綿と続く伝統というのは、それに盲目的に従っているだけでは邪魔で無駄なものに感じる事もある。

でも、100年という短い時間であっても、時間を経て、尚生き残っている手法とうのは、意味があるから生き残っているんです。


僕は芸術家ではなく、エンジニアで、なにかを表現するという事に長けているわけではありません。

だけど、表現する事って、写真であっても、いろんな側面があって、奥深く、興味深く、恐ろしいです。

立ち位置を見失うと、自分が大きな奔流の中に溶けて消えてしまいそうになります。

だからこそ、自分の考えで「立つ」という事がとても大切なんです。


RPGのキャラクターが、転職を繰り返し、様々なスキルを身につけるけど、最後はオールマイティーの、ぼんやりしたつまらないキャラクターになってしまうように。

反応速度とスピードだけに特化していて、防御力と攻撃力は最弱。

そんなキャラに自分を育てたいです。

If You Love Somebody, SET THEM FREE.

GO MATSUOKA :Sépia

If You Love Somebody, SET THEM FREE.

If You Love Somebody, SET THEM FREE.