2011年12月22日木曜日

Fairytale


クリスマスの時期のロンドンはとても日が短い。
16時には日は落ちて真っ暗になる。

クリスマスシーズンになると、世界のどの都市とも同じように、ラジオからはクリスマスナンバーばかりが流れる。
ロンドンのラジオで、毎年ヘビーローテーションされるクリスマスソングの代表は、
The Porguesの“Fairytale of New York”だ。

クリスマスのスタンダードなんだけど、世界でこれほどラジオから流れる場所は、ロンドンかダブリンだけだろう。


ニューヨークで夢を叶えようとしたアイリッシュの若い恋人達。
だけど、年をとり、夢はやぶれて、男は酒におぼれ、二人はお互いを罵り合う。

曲の最後、罵り合って疲れた沈黙の間に訪れる不思議な心の交流がとても好きだ。

あえて言うなら「演歌」なんだけど(笑)。


僕はイギリスでこの曲が人気があるのがとても分かる気がする。
アイリッシュの曲調のためばかりではないと思う。

人それぞれクリスマスがあるんだけど、クリスマスは贖罪の日でもある。
クリスマスキャロルも、Smokeも、最後は皆贖罪で終わる。

このキリスト教の中心教義は、もしかしたら


「人は根本的には理解しあえない」


という前提なのかもしれない。


理解しあえないから、年に1度感情をリセットするんだ。

傷つけた相手への罪を。
憎んだ相手への怨嗟を。

それはシンプルで素敵な考えだ。

そしてまた1年。
新しい出会いとして、相手を抱擁できる。







Wishing You A Merry Christmas.














I could have been someone, 
Well so could anyone
You took my dreams from me when I first found you

俺はもっとマシな人間になれたはずなのに。
そうね、そうかもしれない。
出会った時に、あんたは私の夢を奪っていったのよ。

I kept them with me babe I put them with my own
Can't make it all alone, I've built my dreams around you

今でも大事に持っているさ。俺の夢と一緒に。
一人じゃ無理なんだ。お前がいたから夢を見る事が出来たんだぜ?


The boys of the NYPD choir were singing "Galway Bay"
And the bells were ringing out For Christmas day


ニューヨーク市警の合唱隊の奴らが”GalwayBay”を歌っていた。
そして、クリスマスの空に鐘は響き渡る。






KEIICHI TSUJIURA:Le Noir Suprême-5 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5806 If You Love Somebody, SET THEM FREE. AYAKO TOYOOKA :Cantabile
HIKARU KOSAKA : lamentoso HIKARU KOSAKA :AdagioCHIKA FUKUMOTO :THE ROSE [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  2546
Gimme Shelter [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5868


Happy Christmas.


from

NOT LOVE BUT AFFECTION





2011年12月12日月曜日

【Sputnik】全日本シクロクロス選手権2011 マキノ








手に入れる事は
失う恐怖の始まり

失う事は
挑戦する事の始まり











[Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  3410 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5550 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  4438 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  4440 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  4770 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5664 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5667 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5675 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5759 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5806 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5823 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5826 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5828 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5836 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5855 [Sputnik] JAPAN CYCLOCROSS CHAMPIONSHIP 2011 MAKINO  5868





読んでもらえるだろうか?

手紙を書こう。


ザ・ブルーハーツ 「ラブ・レター」













fin.

2011年11月7日月曜日

imagine


20113月11日 19:00頃


母は自宅で震災の報道を見ていた。

まるで窓に残る泡を拭きとるかのように、津波で消失していく建物。
その泡の一つ一つの瞬きの中に人の命が消えて行く。

彼女はその感覚もなく、ただ無感覚に、それでもテレビから目が話せなかった。
彼女は膝に3歳になる孫娘を抱き、そして、なぜか、ジョンレノンの”imagine”を口ずさんでいた。

歌詞は漠然としか知らなかった。
でも、そのメロディーは覚えていた。
唯一記憶している冒頭の部分を、繰り返し繰り返し歌っていた。



Imagine there's no Heaven

想像してごらん。天国なんてないんだって。

It's easy if you try

簡単な事さ。試してごらん?




この曲を最初に聴いたのは、映画”The Killing Fields”の挿入歌としてだ。
カンボジア内戦を描いたこの映画の中で、唯一覚えているシーンは、クメール・ルージュに銃殺された死体の山の中を、主人公の一人であるカンボジア人の通訳が彷徨うシーンだ。
(もしかすると劇中の挿入歌ではなく、予告編の映像だったかもしれない)

死屍累々の凄惨な土地を、無感覚で彷徨う男。そして、その現場になんとも合わない牧歌的なピアノと詩。


You may say I'm a dreamer 

君は僕を夢想家だと言うかもしれない。

But I'm not the only one 

だけど、そんな夢想家は僕だけじゃない。

I hope someday you'll join us 

いつか君にも分かる日がくるといいな。

And the world will live as one

そして世界はひとつになるんだ。



僕はこの詩がとても嫌いだった。
授業や映画で様々な反戦運動の形態を見たけど、どの運動も、戦争のない、恵まれた環境の若者の暇つぶしにしか見えなかった。
現代的に言うなら、「中二病」だ。


「代案もない。方法も分からない。だけど平和はいつか来る」




大人になるにつれて、ジョンレノンの様々なドキュメンタリーを見た。
彼の行動、彼の考えをいろいろ見ているうちに、思ったのは、

「ジョンレノンにとって、平和活動はファッションだったのかもしれない」


記録を見ると、とても捉えどころのない人物だ。
変幻自在で、生涯を通じての一貫したテーマというものはない。

時代時代で様々なトレンドを取り入れ、貪欲に吸収していく。

彼にとって、その晩年には「反戦活動が、今キテいる」状態だったのかもしれない。


村上春樹の小説、「ノルウェイの森」

原作にあったかは記憶が定かではないが、映画の冒頭で、大学の授業中に、学生運動を行う生徒が授業を占拠して演説を始めるシーンがある。

彼らは恐怖を解いて運動への参加を生徒に訴える。


「明日にも戦争が始まる」


現代に至るまで、強い主義主張を持つ集団、個人は、自らを選民と思う。
そして、自分たち以外の哀れな大衆を「啓蒙」しようとするのだ。

それが戦争であったり、イデオロギーであったり。

啓蒙に恐怖を使うのは、もともと宗教の手段でもある。

でも、恐怖を使う啓蒙は、我々の心に響かない場合が多い。

それは、我々の前に日々提示される情報量が膨大になった事で、プッシュする力の強いメッセージに対して、無意識にフィルタをかけてしまうからだと思う。

限られた情報しかない時代、少ない情報の中で、プッシュ啓蒙は効果があったのかもしれない。

だけど、現在は、スケジュールからおすすめ番組、たわいないチャットまでが全てプッシュ情報だ。

恐怖を唄う啓蒙は、現代人にとっては、無意識にフィルタするスパムに近いのかもしれない。

純粋にまっすぐに信じる人ほど、強く啓蒙する傾向が強く、脅迫に近くなる事も多い。

そう考えると、このジョンレノンの牧歌的な詩はすごく新鮮だ。

とてもシンプル、そしてとても抽象的。

だから、時代を超えて、人々にヴィジョンを提供し続けるのかもしれない。

僕は、人間の社会から、差別や宗教や戦争がなくなる事はないと思っている。
人である限りは。

だけど、この歌を聞くたびに思う。

「人間はこんな事も考える事が出来るんだ」って。



ヴィジョンってそういうものだ。

それは方向だから。

アーティストにはそれが許されるんだ。夢物語が。

現世の人間は、現実のソリューションを常に提案しなければいけない。現実の落とし所を見つけていくと、なにが目的なのかわからなくなる。

最終的な料理の仕上がりをイメージしていなければ、夕食の買い物のチェックリストを潰す事は出来ない。

最終的なヴィジョンがなければ、政治も経営も動けない御用聞きと一緒だ。


レノンのヴィジョンがとてもシンプルで、夢物語であっても、陳腐化せずに、ずっと人に語り継がれるのは、それが完全に抽象化された単純な「夢」だからだ。

だから、彼はそれを本気で信じたり、本気で目指したわけではないと思っている。

突き放しているから、欲を捨てて、ヴィジョンが純化されたんじゃないかな。

簡単なようでいて、これほど難しい事はない。ある意味、悟りに近い。

仕事だけを突き詰めてきた自分にとって、写真はレノンの平和運動と同じだったのかもしれないと思う。

現実を離れて、純粋に突き詰めたいヴィジョンだったんだ。












2011年10月30日日曜日

1/1000秒の人生


June 26, 2011 at 8.10am

「間もなく自転車レースの集団が通過します。沿道の皆様の応援をよろしくお願いします。」

「先導車」と僕が呼んでいる先触れのオフィシャルカーのアナウンスが、のどかな田園内の一本道の先から聞こえてくる。

この場所に到着したのは、7:20am
到着後に機材の動作チェック、光量のチェック、待機しているコーナーの状況を確認しているので、直前は特にする事もない。

6月下旬の八幡平は、朝の気温が18度と肌寒いぐらいだ。
天気が懸念されていたけど、雲の流れは速く薄い。天候は持ちそうに思える。

先導車の通過にあわせて、iPhoneのラップタイマーをスタートさせる。
別にタイムを記録しているわけではないんだけど、ラップ数を記録していないと、周回コース、かつ男女混走の状態では、先頭の場所も分からなくなる。

先導車で記録をつけるのは、必ずプロトンの先頭に来る事、アナウンスで判断が容易な事、そして、プロトンの接近時にはファインダーを見ているので、計測できないからだ。


周辺を見回すと、観客は20人程度。オフィシャルとチームのサポートスタッフを除けば、純粋な観客は4人ぐらい。
全日本選手権の観客動員は、他の国内レースからすると多いとはいえ、JapanCupの密集した熱狂とは比べ物にならないぐらい少ない。
そして、多くの人は、スタート地点にいるので、最後の上りに入るこの直角コーナーには、なおのこと人がいない。

田園の中の一本道から逃げる3名が見える。3名だとこの距離では無音。野鳥のなく声と、木の葉が風にゆらぐ音だけが聞こえて、シュールな光景にも見える。

そして、その30秒ほど後方からプロトン。
こちらはさすがに人数が多いので、遠距離でもチェーンとホイールからの独特のサウンドが、遠雷のように静かに聞こえてくる。


シャ、シャー、シャー、シャー、シャ、シャー

撮影位置に選んだのは、右に90度曲がるコーナーのイン側のポールから、1m程度後方のガードレール内側。
カットインして最後の上りに立ち上がる選手の表情を下から捉える予定。


シャ、ジャャー、シャー、ジャャー、シャ、ジャャャャャー


このコーナーイン側には、様々な看板と標識があり、ライダーのロック地点から、フレームアウトするまでの時間は0.5秒程度だと思う。

だから、重要なのは、「状況にあわせて撮る」事ではない。
誰を撮影するかを道路横からの望遠で決めた後に、すぐポジションに付き、もしそのライダーが被ったり、アウトにラインを変えたら、そのラップを捨てるぐらいの意識でいいはず。
2秒あれば状況に合わせる事も可能だが、0.5秒では目的以外は全て捨てる必要がある。

その時の目的は別府史之選手だった。
写真を始めたきっかけが彼でもあり、彼のシリアスなレースを見る初めての機会でもあったからだ。

ピーナツぐらいの大きさだった逃げの3人が、ナゲットサイズになった時にファインダーで露光を確認する。

逆光気味になるので、暗めの草地で測光した結果、ファインダーに表示された数値は

ss 1/1000
F14
ISO2400

1/1000のシャッター速度の時に、F10前後になるようにISOを調整するのが経験からのセオリーなので、現在の光源だとISOが高い。1600にダイヤルで調整する。




June 26, 2011 at 8.16am JST


ファインダーのセンターのフリップにライダーを二度三度テストロックして追随を確認する。

大きさはいよいよホットドッグ。


ジャァ!ジュジュジュ!ガチャ!ジュジュジュ!



このような見晴らしの良い直線では、プロライダーの走りでも、前方から見ていると、スピード感はあまり 感じられない。

ただ、自転車レースは被写体との距離がとても近いので、10メートル手前からのスピード感はモータースポーツを上回る。それは、前方から狙うよりも、横を通過するライダーを高速にパンしながら追う僕のスタイルからかもしれない。

前方5メートル。看板に遮られる直前。別府選手は2番目の位置。

そして、看板に入り、そこからパンドラの箱の魔物のように選手が飛び出す。


ジャァ!ジュジュジュ!ガチャ!ジャーーーーーーーーーー

最初にロックする瞬間、この瞬間は、一番アドレナリンが放出される瞬間。
0.5秒なんてレンジは日常生活で意識する事はない。
でも、ファインダーでロックする瞬間、なにかのスイッチが入り、0,5秒は1分程度に引き伸ばされ、ライダーの動きはスローモーションのように感じる。


【GHOST WHISPER】JAPAN ROAD RACE CHAMPIONSHIP 2011 IN IWATE 25 【GHOST WHISPER】JAPAN ROAD RACE CHAMPIONSHIP 2011 IN IWATE 26 【GHOST WHISPER】JAPAN ROAD RACE CHAMPIONSHIP 2011 IN IWATE 27 【GHOST WHISPER】JAPAN ROAD RACE CHAMPIONSHIP 2011 IN IWATE 28



逃げているライダーは視線はあまり移動しない。

ただ、その動かない視線の、さらに微妙な動きをトレースしているとき、自分が走っているわけでもないのに、ライダーの鼓動と同期したような不思議な感覚になる。


逃げは0.5秒で視界から消え、そしてプロトンが迫る。
とりあえずファインダーで流して撮るが、そのショットが納得の行くものでない事はわかっている。
狙いがないからだ。

今の逃げとプロトンのタイムギャップから、プロトンで新たに狙いを決めるのは難しく、確認出来るギャップが開くまで、逃げだけを狙う事に決める。


プレビューで全体の露出確認だけを行い、次に接近する女子の先頭に備える。

ここから6時間近い長いレースが始まる。

ウェストバッグから、エナジーバーを取り出し、立ったまま無言でかじる。










たぶん、レースの写真を撮影していた理由の一つは、この1秒以下の邂逅がとても刺激的だからだと思う。
八幡平まで来るのに、6時間新幹線に乗り、そこから1時間車を運転し、ケータイの電波すら入らないロッジで二晩すごし、6時間田園の真ん中の看板の裏に立ち続け、それでも撮影で集中している瞬間は、トータルでも2分ないぐらいだ。

経済性で考えたら、これほど割に合わないものもないだろう。

でも、膨大な準備、調整、鍛錬が、わずか1秒以下の時間軸に凝縮されるような刺激的な体験は、普通に生活していたらなかなか得られない。


その背筋がゾクゾクする感覚は、今まで人と共有した事がなかった。

最後に言葉に残したくてトライしたが、その気持ちが、あなたに伝わるかどうか僕は自信がない。


単なる「道楽」といえばそれまでだけど、僕にとって「道楽」とは、享楽的な楽しみではなかった。

与えられた遊びではなく、そこには確かに自分にしか見えない世界があって、自分でないとその瞬間は味わえなかった。

そこに立ち続けるのはとても苦しく、精神も磨り減るものだけど、その「瞬間」を感じられたのはとても幸せだったと思う。


ある人は言った。


「苦しくても続けているのなら、それは好きという事なんじゃないかな?」


今の僕はこう思う。


「楽しい(fun)でも、興味深い(interest)でもなく、それでも人はなにかに熱病に冒されたように邁進する事がある。」

それは「自分が生きている事」のモデル化。
人生を1秒以下に凝縮する事で、生きている意味を確認する行為。






この気持ちを、一昨日他界した古い友人に捧げます。




2011年10月16日日曜日

自由


手紙でもいいし、プログラムコードでもいい。
写真でもいいし、音楽でもいいし、宗教絵画でも漫画でもいい。

何かを作っている時、あなたは自分の自由を感じるだろうか?


日本の小学校で、最初にまとまった文章を書く経験は、おそらく作文の授業だ。

子供の時、家にあった児童文学(ヴェルヌとかHGウェルズとか)がとても好きで、何度も読み返していたので、作文の授業はとても興味があった。

あのワクワクするような物語を作る方法を教わると思ってた僕は、先生の言葉に衝撃を受けた。



「思った事を好きなように自由に書きなさい。」





例えば絵だったら、

子供は必ずなんらかの方法で絵を描く。
技術云々以前に、画用紙にでも机にでも、クレヨンや、マジックで絵を描く。

これは視覚表現である絵の特権かもしれない。
どのようなレベルであれ、目の前に提示されたらそれは「表現」として鑑賞可能だ。

ただ、文章は違う。


読み手は、文字コードの配置から、書き手が提示しようとしている情景を組み立てる必要がある。

つまりコードの実体化だ。


実体化されて初めて文章は鑑賞対象となる。
だから、なによりも、実体化させる時のストレスをなくさないといけない。

基礎技術がとても大事な分野なのだ。
絵画ではなく、表現としては音楽に近い。(ただ、音楽よりは、技術の敷居は低い)

文法、語彙はもちろんだけど、文章の基礎技術で大事なのは膨大な型の蓄積だと思う。
剣術に型があるのは、多種多様な実戦での状況の中、型に適合する状況に体を自動反射させ、迅速に対処するためだ。


型は「型にはめる」という使われ方もするし、創作とは相容れない言葉にも思える。

だけど、文章の世界で創造性(作家性)を発揮するためには、膨大で単純な型の、気の遠くなるような蓄積が必要で、文学的才能を例えるなら、


“巨大な地層を膨大な年月をかけて浸透し、最後に洞窟の岩肌から滲み出る純水”



だと思う。(もちろん僕は文筆家ではないので、客観的な観察による印象だけど。)

だから、なにもない子供に対して、

「自由にしてよい」

と告げる事は、恐ろしく不自由を強いる事になる。



猿人が手にした水牛の骨が、敵対する相手を殺す武器になり、そしていつしか木星探査をする宇宙船になる。

骨(ツール)がなければ、猿人は絶滅していくだけだった。
ツールを手にして、初めて進化し、そして自己を表現できるようになった。


こう考えると、既得権益としての自由はないんだ。

いや、既得権益ではない。

デフォルトの状態での「自由」が存在しないという事だ。



型を積み重ねて行く過程で、作家の能力の分岐点は必ず現れる。

型をトレースする事自体が目的となり、型の内側を衛星のように周回するか、
あるいは、散在する型と型を組み合わせ、初めて自分で「型」を作る創造を行うか。






僕のような世代は、思いついたアイディアには、大概、アニメなり特撮なりの元ネタがある。
今の時代には、完全なオリジナルなんかないんだ。
全てはリメイクでリミックスなんだ。

庵野 秀明

2011年10月7日金曜日

芸術家の死



本当の芸術家は食うために何かを作らない。
作るために食って生きるのだ。   

小説/蜘蛛の紋様1







芸術家という呼び名は、日本ではあまり良いイメージがない。

・芸術家気取り
・中二病

たいていは

「本道からドロップアウトした残念な人」

という意味で使われることが多い。

Artという言葉は、芸術という意味の他に「人文科学」という意味も持つ。
日本で言う「文系/理系」は “Art/Science”。

僕のイメージでは、

サイエンス(科学)
=物事の成り立ちと構造を追求する
アート=(人文科学/芸術)
=サイエンスが提示する構造に、文脈(コンテキスト)の肉付けを与える。


つまり、KYOKOが見た情報を記憶するプロセスを解き明かすのがサイエンスだが、
KYOKOの記憶により彼女が追憶を感じる事を、他者に共感させるのがアートだ。






スティーブ・ジョブズは、その起業時から晩年まで一貫して

「目的は、いろんな制約の垣根を外し、情報によって人を開放する事」

と言っている。

Appleへの復帰後、若干神格視されてきた彼だけど、これは変わらない彼の姿勢だと思う。

経営者としての彼を評価するとき、メディアは

「今世紀最大の経営者の一人だが、そのカリスマ性のあまり後継者が育ちにくく、企業永続性の基礎を築けたかは疑問」

と評価する事が多い。



訃報を聞いて、

「彼はずっと「経営者」という感覚ではいなかったのかもしれない」

と感じた。

彼にとって、「情報による人の開放」というヴィジョンが全てであり、Appleの事業自体は、その為の道具でしかなかったんだ。


そういう意味では、彼は生粋の「芸術家」だと言える。

芸術家に「清貧」と「純真」を求める人も多いが、「作品(ヴィジョン)」の為に、自分の全存在も環境も利用するのが芸術家で、ベクトルの違う博徒や実業家とも言える。

「作品(ヴィジョン)」の為には多額の資金と力が必要で、その為には呵責なく勝つ必要があるのだ。

なので、通常のビジネスのルールが、彼には適用されず、一度は失敗し、環境から放逐され、そして戻って全てを書き換えた。

強いビジョンを持つ作家や経営者は、作品の流れが舞台的な流れを持つので、わかりやすくドラマチックだ。

AppleがAppleであるから、
シリコンヴァレーはビジネスの主戦場というより、まるで昼メロやオペラの愛憎劇のように下世話な面白さがある。

ジョブスの強烈なヴィジョンに翻弄され、かき回され、反発し、迎合し、

かつて、F1が絶大の人気を誇った時代、そして、今のロードレースの人気のように、「人の営みの、生き生きとした面白さ」があるのだ。

Appleが人に夢を与えのは、そのビジョンが共感される、というのももちろんだけど、ブラックホールと超新星をあわせもったような強烈な重力とエネルギーが、

「なにか変わるかもしれない。」

と人に思わせるからだ。

閉塞感にまみれた苦痛な日常よりは、とりあえず無理矢理にでもサイコロをふって、壊してくれる暴君が快感なんだと思う。

エヴァンゲリオンの最初の映画が公開されようとしていた90年代後半、ニューズグループの書き込みがとても印象的だった。

「オレは絶対エヴァなんて認めない。なぜから……」

という書き出しで、彼は膨大な量の「認めない理由」を書き出していた。
なんと強い作品への愛だろう。

愛され、庇護される事を選ぶ芸術家もいるだろう。

だけど、中立がおらず、信者もアンチも巻き込んで巨大なエネルギーの奔流に変えて目的へ登っていくのが、僕は「本当の芸術家」だと思う。


彼は死ぬときも劇的だった。
ジム・モリソンやジョン・レノンのように。

ちょっとズルイなと思いつつ、天使も悪魔も巻き込んで、今後も天国でヴィジョンを目指して欲しいと思います。

やんちゃが過ぎて天国から追放されたら、再び”one more thing”を聞かせてください。






2011年9月28日水曜日

【笑】

天才と言われた落語家、桂枝雀さんの 日常はサラリーマンのような生活だったそうだ。

寄席で一席公演するのが30分。
その他に、7時間30分、毎日稽古に費やした。

「噺家は勤め人と同じぐらい稽古をせなあかん」

というポリシーだったそうだ。
自分の持ちネタを60と決め、60枚のカードにネタのタイトルを書き、稽古をするネタはカードのシャッフルで決めた。

当然、自分の苦手なネタも入っている。
苦手なネタを引いた場合、「あちゃー」といいつつも、淡々と稽古を行った。

弟子の桂南光さんが、稽古は楽しいですか?と聞いた。

枝雀さんは答えた。

「稽古は…あまり、楽しないなぁ」

代々の名人が、様々な技工を凝らして洗練させてきた上方古典落語。
枝雀さんは、その古典の流れを全て踏まえた上で、さらに面白くする事に没頭していた。

古典落語のネタの中だけではなく、仏教や、哲学も探求していった。

おそらく笑いに対する追求を先鋭化しすぎた為だろう。



彼はうつ病になり、しばらく高座を離れた。



うつ病の後、彼は弟子にこう語ったという。



「ひとつの事に、きゅーっと入り込みすぎたらあかんのや。」

「心をネタから離して、もっと軽やかに、軽やかにやらんと。」




その後、彼の高座のスタイルは、さらに自由奔放に進化する。

小さな座布団の上で客に宇宙を提示するのが落語だが、彼はその座布団からはみ出すようなオーバーアクション、歌舞伎のような誇張された表情を使い、どんな客からも笑いを引き出していった。


1999年にうつ病が再発し、自分で命を断った。



「軽やかに、ネタから心を離す」



なにかを追求するとき、人間はどうしても没入し、そして、対象と同化していく事が多い。

枝雀さんの師匠である桂米朝さんは、枝雀さんの高座を見て、


「噺家が、噺の中の大工と同じように、ぜぇはぁ汗かいてどないすんねん」


と注意したそうだ。



噺家の仕事はストーリーテリング。
観客に物語を伝える事。



だけど、登場人物と同化しては、それは伝えられない。
同化するから臨場感が出るのではなく、同化は主観なので、言葉や動作では伝えられないのだ。



僕は人の写真を撮るので、よくこの話を思い出す。

限りなく近づかなければ分からない。
でも同化したら表現できない。

それはまるで、壁に向かってバイクを走らせ、フルブレーキングの後に、壁までの距離を競うチキンゲームのような感覚だ。

枝雀さんは、最後までどうしても、ブレーキを踏む事ができなかった。
それは彼の命を奪う事になったのだけど、彼の目指す「笑い」は、そのギリギリの安全距離と壁との間にあったのだろう。



昨年、「サイクリストの肖像」で本を作った時、
なんというか、ほぼ勢いだった。
できた時に、すごく感慨があったし、自信もあった。


今年も「rev.2011」として、新たな本を作成した。
終わった時、感慨がまったくなかった。
あきらかに昨年版より質は向上していると思うし、稚拙であった部分も薄らいだと思う。

でも、「ここから何をする」という方向がまったく見えなかった。

それは満足でも、達成感でもない。

言葉にするなら虚無感だと思う。

最初から最後まで、僕はレーサーとしてでなく、人間としてサイクリスト達を見てきて、「人間の戦う姿」にすごく惹かれた。


ただ、そこから先に踏み込む事はできないと直感したんだろう。


そこから先は、「分かる事のできない領域」だ。
一体化してしまうから。




それは、単なる一時的な中二病の挫折なのかもしれない。

でも、近づく事を目指して自分の世界は構築されてきた。

安全な距離でブレーキを踏んで、壁と並行移動する選択は、今となっては難しい。




自転車レースの写真を休止し、しばらく自分の頭から離して、軽やかに見てみようと思います


そこで新たに分かる魅力もあるでしょう。


今年の本、「NOT LOVE BUT AFFECTION rev.2011」は、最後の帯にこう記されています。






果てしない奇跡の繰り返しの果てに生まれた

あなたとわたしの「縁」に

本書を捧げます



















NOT LOVE BUT AFFECTION

2009-2011





photographer: kiguma.plate (a.k.a. kiguma)





special thanks: RR Cluster on Twitter




Cyclists
in order to appearance on rev.2011.






CHIKA FUKUMOTO
FUMIYUKI BEPPU
CHIHIRO MATSUDA
KENJI ITAMI 
TAKUMI BEPPU
Michael Mørkøv 
CHISAKO HARIGAI
YUKIYA ARASHIRO
YOSHIMASA HIROSE
DAVID DE LA FUENTE



If You Love Somebody, SET THEM FREE.


YUZURU SUZUKI 
MASAMI MORITA
GUSTAV LARSSON
CLAUDIO CORIONI
YUKIHIRO DOI
HIDENORI NODERA
YUSUKE HATANAKA
Team Ready Go Japan
SHINRI SUZUKI 
TOMOYA KANO



If You Love Somebody, SET THEM FREE.


TAKASHI MIYAZAWA
YOSHIYUKI ABE
MAYUKO HAGIWARA 
MOTOI NARA
IVAN BASSO
GIOVANNI VISCONTI
SHOTA SAITO
SAKIKO SATO
OHKO SHIMIZU
AYAKO TOYOOKA


FUMIYUKI BEPPU  :Le Blanc Suprême-45


DEAN DOWNING
JENS VOIGT
KEIICHI TSUJIURA
DAMIANO CUNEGO
YOSHIMITSU HIRATSUKA
KANAKO NISHI 
Team Rapha
NARUYUKI MASUDA
HATSUNA SHIMOKUBO 
YUKIYO HORI


If You Love Somebody, SET THEM FREE.


YASUHARU NAKAJIMA
NOZOMI NAKAMICHI 
TAKAYUKI ABE
KENSHO SAWADA
HIKARU KOSAKA
MAKOTO IIJIMA
CRISTIANO SALERNO
GRAHAM BRIGGS 
SHINICHI FUKUSHIMA
SATOSHI MATSUMOTO


If You Love Somebody, SET THEM FREE.


AKIHIRO KAGEYAMA
YU TAKENOUCHI
YOSHINORI IINO
CLAUDIO CUCINOTTA
TARO SHIRATO
CHRIS ANKER SORENSEN 
MAKOTO SHIMADA
MAKOTO NAKAMURA
TAKEAKI AYABE
OSAMU KURIMURA


THE THIN RED LINE


TAKAYUKI NAGANUMA
TAIJI NISHITANI
KAZUMI YONEDA
KAZUHIRO MORI
KANAKO KASE
TAKAHIRO YAMASHITA
AKIRA KAKINUMA 
ATSUHITO WAKASUGI
Matthieu Cognard
DARREN LAPTHORNE


If You Love Somebody, SET THEM FREE.


YOSHIYUKI SHIMIZU
DJ GALAPA
ATSUSHI MARUYAMA
MASANORI KOSAKA
RIE KATAYAMA
JUNPEI MURAKAMI
MASAKI WAKUMOTO
JUNYA SANO
KJELL CARSTROM
TOKI SAWADA


If You Love Somebody, SET THEM FREE.


SHINYA IKEMOTO
Michael Mørkøv
MASAMICHI YAMAMOTO
HISAFUMI IMANISHI
YOSHINOBU YABE
RYUICHI UEMURA
GO-(Pump-King)- MATSUOKA
HIROSHI NARA 
KEN OHKOSHI
AKIHIRO SHIBATA


TOMOYA KANO: Le Blanc Suprême-56


FUMITAKE NAKAMURA
YOSHIHIKO MORINAGA 
TAKAYUKI KUROKAWA
TAKEO EKUNI 
SHINPEI FUKUDA
MASAHIRO SHINAGAWA
KENICHI SUZUKI
MITSUHIRO SANO
a Boy in Orange(Type-02)
MASAHIKO MIFUNE


YUSUKE HATANAKA: under the Ruby-Red Sky


EIICHI HIRAI
KIYOKA SAKAGUCHI
YOSHIMITSU TSUJI
MASAKAZU ITO
KAZUKI AOYANAGI
SHO HATSUYAMA
RUBIANO CHAVEZ Miguel Angel
GENKI KUBOTA
GENKI YAMAMOTO










FUMIYUKI BEPPU :Le Blanc Suprême-11




All Photos were taken in between
25-October-2008 to 26-June-2011

2011年8月17日水曜日

My Favorite Things

きっかけは覚えていないが、John Coltraneのアルバム、”My Favorite Things”を最初に聞いた時の印象は鮮烈に覚えている。

学生の時、映画”Round Midnight”を祇園で見て、その中に出てきた老人のジャズミュージシャンのセリフがとても印象的で、ジャズのレコードを買いだした。


「毎日なにかを創る行為は、墓場へ一歩一歩足を踏み込んでいくようなものだ。」



当時、CDは普及し始めていたが、安価に入手できるのは、Tower Recordや中古ショップで購入できるレコード(ビニール)だった。


言わずと知れたミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の一曲。

雷を怖がる子供たちに、マリア先生が「楽しい事を考えて」と励ますシーンの曲だ。

原作は二拍子の軽快な曲としての印象。

だが、レコードプレイヤーに針を落として最初に流れる4ビートのうねるようなピアノのイントロと、コルトレーンの地を這うようなソプラノサックスは、原曲とはまったく別の印象だった。

その時の印象をなんと表現したらいいかわからない。
凡庸な表現だけど、頭をハンマーで殴られた感じとしか言いようがない。


部屋で繰り返し繰り返し聞いていた。

訪ねてきた友人が、昼間から暗い部屋の中で、変な音楽を大音量で聞いている僕を見て、

「あいつはドラッグ中毒だ」

と噂を広めたぐらいにw


何回も聞いていると、実は最初の印象より、それほど原曲とかけ離れた解釈ではないとわかった。

原曲も始まりは短調(マイナー)で始まる。
子供に語りかける歌というには、クールで突き放した曲だ。

いつの間にか長調(メイジャー)に転調するが、クラシックのようにドラマチックな変化ではなく、とても自然で、そして、劇的ではなく、突き放したように終わる。


ジャズの世界のスタンダードナンバーだけど、コルトレーン以外にカヴァーされたFavorite Thingsはまったく印象がない。
カヴァー作品の代表曲と言ってもいい。

CMでは京都の高桐院の紅葉のCMで、コルトレーンの曲が使われた。
映画では、ビョークの”Dancer in the Dark”で彼女によりカヴァーされた。

名曲ではあるが、どこか儚く悲しいシチュエーションで使われる事が多い曲だ。


最初に僕が感じた印象。

「とても美しく、そして恐ろしい」

というのは、世間のスタンダードな評価なのかもしれない。







実は、この曲は、生まれてはじめて、人の評価ではなく、自分自身が評価した曲だ。

それまでは、音楽でも、映画でも、絵画でも、人の評価に乗った事しかなかった。

両親の評価であったり、友人であったり、彼女であったり、雑誌の評価であったり。

自分が信頼している人や媒体が評価している=良いもの

という評価を二十歳ぐらいまでずっとしていた。


事実、この曲をきかせた彼女の評価は芳しいものではなく、録音テープを貸した 友人も首を振りながら返却してきた。

それまでの僕だったら、たぶん、周りの評価に動かされて、聞くことをやめたと思う。

でも、最初にレコード特有のノイズの中から、JBLのスピーカーを通して出現したイントロの印象はとても鮮烈で、評価を覆すどころか、20年以上経過した今でも、もっとも好きなアルバムの1枚だ。




「教養がないから芸術や文学なんて分からない」

という人もいる。

「教養」ってなんだろう?と思う。

作品に対する権威の評価?あるいは作品の歴史的立ち位置?

そういう「知識」を教養というのなら、

「知識」を超え、無教養な僕の「感性」を揺さぶらない「芸術」

は、僕には無価値だ。

知識は「解釈を拡張する」役目を持つが、解釈が立脚するのは「感性」だ。
感性を刺激しない解釈は、歴史を年数の丸暗記で理解するのと同じ。

1945年の出来事は覚えても、出来事に関する文脈(コンテクスト)は理解できない。



「自分で自発的に、なにかを美しいと思う事ができる」

というのは、よく考えてみれば、すごく幸せな事だ。
もちろん独善的だったりする事はたくさんあるし、時間の経過で印象が変わる事もある。

でも、100のうち1つでも、長い年月の間、変わらずに「美しい」と思えるものが選択できるなら、それは、心のそこのコアな価値観に変化がないという事なんだと思う。

それが宗教だったり、仕事だったり、音楽だったり、いろいろなんだろうけど。

それはあなたにも、いつか見つかる。










2011年8月15日月曜日

Stress

「ストレス」はネガティブなイメージで語られる事が多い。


特に仕事上のストレスだと、体を壊したりのマイナスイメージがつきまとう。


小さいメモパッドを一日持ち歩いて、ちょっとでもイラっとした事を感じたら、書きだしてみると面白い。


我々がいかにストレスフルな世界でサバイバルをしているか分かるから。




日本人は美徳とされる謙虚さで、それを飲み込む事が多い。
外界からのストレスにさらされても、それは自分がアウトプットしなければ日常は変化なく平和だ。


その行為に「我慢」という称号を与え賞賛するのは、美しいけれど、残酷な文化だ。






エンジニアにとっての仕事上でのストレスとは、ほぼ例外なく


・合理性の欠如


だと思う。


昔、同僚が、同じ職業に携わる人間の気質を見事に例えた。




「楽をする為なら、喜んで徹夜するね。」




彼が言いたかったのは、毎日のムダな1時間の残業を生む温床になっている繰り返しの処理、無駄なビルドの待ち時間をなくす為なら、喜んでそれを自動化するタスクを書き、ビルドを効率化するためにコードを最適化する、という事だ。


結局、ストレスの本質は




<私はこうしたい(あるいはこうありたい)>




という理想を、外因から規制される事によって生じる摩擦だ。




日本人は、それを心の中にしまいつつ、なんとなくお酒の席とかで口に出して、それでバランスを取る人が多い。


状況によっては、自分の感じたストレスが検討違いだったり、自分に要因がある場合もあるだろう。


だけど、それは洗い出してみないと原因がわからない。








週末に行うルーティーンのタスクで、その週をふりかえる事をしている。


記述はすごくカンタン。




・楽しい事
・悩ましい事
・イライラする事
・増やす
・そのまま
・減らす


この項目について、自分の所見を書いていくだけ。


これは、あるAgile開発の本で、チームミーティングで行う内容として例示してあって、そのシンプルな分析手法をすごく気にいって取り入れた。


(通常、Agile開発の本って、どうしても自己啓発っぽくなって嫌いなんだけどw。でも、おいしいところだけをつまみ食いする価値はあると思う)


上の3つが事象で、下の3つが対策だ。


実際にやってみて感じたポイントは


「自分の正直な気持ちを、飾らずに書くこと」


これは自分が悪いから、とか、自分の実力が足りないから、とか最初から判断してしまうと、ストレスの本質がわからないままだ。


とりあえず、書きだして眺めると、それだけで不思議と感じていたストレスが軽減されるのが面白い。


これは超自然的な現象ではなくて、頭の中にあった漠然とした違和感を、自分の頭から切り離して、紙(あるいは電子データ)という媒体の上に置き換えたからだと思う。


頭の中にあった漠然としたストレスに対して、自分は今まで渦中の当事者だった。
それを言葉に置き換えて頭から切り離す事で、ストレスを客観視している状態になるんだと思う。(溺れた自分のビデオを見てるように)




言葉にするといろんな事が分かる。







<イライラする事>


・撮影の時にホテルで眠りにつくまでの時間が長い


↓なぜ?


・カメラのバッテリーは全部で4つ。それに対して、新型のチャージャーは2つ。つまり、一度フル充電してから交換する必要があり、他の仕事をしながらチャージを待っていると、完了を気にしなければならずない。
しかも、疲れているときには、最悪の場合、1回のチャージで寝てしまう。


↓なぜストレス?


撮影当日にバッテリーがチャージできていないのが最悪だが、チャージを気にして仕事をしながら待っているのもストレス。


↓つまり


漠然とした気にかかる事を頭に入れて仕事をしている事はストレスフルな状態




↓対策として


<増やすもの>


・バッテリーチャージャーを2つ追加し、合計4つにする。


↓なぜ?


チャージを開始すれば、寝てしまっても充電は完了する。
チャージさえはじめてしまえば、バッテリーの事は忘れる事ができる。




ストレスの内容によっては、対策がもっと複雑になるものもあり、なにかを買って終わり、とはならない事もある。




でも重要なのは、ストレスの内容を客観視する事だ。
僕の経験上、仕事のストレス比重の大きなものは、些細な仕事のフローの非合理性だし、ささいなフローを改善するのに要するコストは、大抵コスト計算の必要もないぐらい低い。
(例えば、複数の場所で仕事をする必要がある場合、その先々で、常に同じ文房具とメモ帳が揃っている事でとても快適になる事もある)


仕事上の遠大な目標のプランニングや、人類誕生の秘密に対する考察も重要な事だが、大きなスコープで考える前に、日常の些細なストレスを削るのはとても大事な事だと思う。


ゲルニカのような素晴らしい壁画を構想しているのに、スケッチブックがB5サイズしかないようなものだ。




不要なものはどんどん捨てましょう、という運動が流行っていると聞いたけど、僕は小さいストレスはどんどん捨てる、というのがいいと思う。








参考:


ふりかえりに関して
「アート・オブ・アジャイル・デベロップメント」
(オライリー・ジャパン)


記憶せねば、というストレスに関して
デビット・アレンのGDT(Get the Things Done)に関する書籍全般。









2011年8月14日日曜日

Not Love, But AFFECTION.


<フロイト>

“---------------- 誰かの顔が寝ても覚めても頭を離れなかった経験は?”

<ジェームス>

“ある”


<フロイト>

“相手は?”

<ジェームス>

イライザ
マリア
イライ
ハーブ
レイランダー
ボアズ
カーター
アンジェラ
ティナ
シド
サロニー
ローズ・・・・・・・・・・・・・・


<フロイト>

“・・・・・・・・・・・なに考えてんた おまえ?
アンジェラは下宿人
ディナはガキ
生みの親に
育ての親に犬に
あとは全部男じゃねえか”



<ジェームズ>

“シドは女だぞ”


<フロイト>

“何者だ?”


<ジェームス>

“アンディとアンジェラの元担任だ”


<フロイト>

“--------------おまえは手近なもんならなんでもいいのか?”
“そりぁ愛着といってな、いつも使っている歯ブラシを気に入るのと似たりよったりのシロモノだ”


<ジェームス>

“歯ブラシを失くしたらあんたは泣くか?”



<フロイト>

“-----------------いや  だが職を失ったり株が暴落しても悲しむ奴ぁ大勢いるぜ “



<ジェームス>

“見慣れた空や親しんだ大地を失っても悲しむ者は大勢いるだろう”


<フロイト>

“------------------------“







from 「愛でなくⅡ-Not Love, But AFFECTION.」 伸たまき










NOT LOVE BUT AFFECTION