2010年12月29日水曜日

THE ZONE

萩原麻由子選手の走りを初めて見たのは、今年、2010年4月24日。
季節外れの吹雪になった群馬CSC東日本グランプリでした。

萩原選手はファーストラップから独走。まったく他の選手を寄せ付けず、さながらITTのような走りでした。

その時、萩原選手の事を失礼ながら知らなかった僕は、萩原選手のある特徴に引きつけられました。


ロードレースは基本、他者との駆け引きなので、プロトンの中でも選手の視線は目まぐるしく移動します。

萩原選手の視線は、ずっと前方一点に固定され、一切移動する事がありませんでした。

独走だったので、全ラップ、全て連続で捕らえているのですが、どのショットを見ても視線はまったくぶれていません。

実際のITTを初めて見たのは、その半月後のTOJ堺ステージですが、ITTでも、選手の顔は固定されていても、視線はかなり移動するものです。


MAYUKO HAGIWARA: Cyclo Lovers Rock-9


萩原選手の視線は、ファインダー越しに見てもシャッターを押すのを忘れるぐらい、ひょっとしたら、彼女は瞬きもしないんではないか、と思えるぐらい、「入神」の域の視線でした。

MAYUKO HAGIWARA :Grave


集中力が極限に達した状態を、英語では

「ゾーンに入る」 “get in the Zone”

と表現します。

例えば、高レベルのアスリートは、よく、ボールや、他のプレイヤーが静止して見えるといいます。

MBAのマイケルジョーダンや、プロ野球の田淵幸一選手もその状態を証言しています。

それはなにもオカルティックな状態ではなく、

・集中力が高まる事により、脳内の情報処理能力、五感からのセンサー応答活動が極限になる。

・その状態では周辺事象の時間軸の流れより、脳内の処理能力の方が高くなる為、主観時間の経過は遅くなる。

という状態だと思われます。

アスリートの世界だけではなく、一般人でもこの状態は発生します。

試験勉強や仕事でのプレゼンテーション。
あるいは、気の合う友達と、興味のある話題を議論している時。

その時、まるで時間は静止したようになり、相手の切り出す単語一つ一つが、まるで、その言葉が発される前から脳に飛び込むような状態になり、会話の車輪が回る時も、「ゾーンに入っている」状態です。


レースの写真を撮影している時も、こういう状態を経験します。
一見「トランス状態」のようですが、意識が飛んでいるトランス状態とは異なり、ゾーン状態の時は、全ての行動は制御下にあります。
その時は、どのような活性化したプロトンでも、ワイドから対象を選択でき、また瞬時に露出を変更できます。
これも神がかった状態ではなく、継続し、繰り返した動作の蓄積と分析から、論理サーキットが形成され、一見跳躍した選択をしているように見えるだけです。


「ゾーンに入った」萩原選手の頭の中は、おそらくシナプスの爆発による情報の洪水と、それを冷静に眺める自我が共存しているんだと推測されます。

独走状態になっているからこその視線の固定ですが、世界レベルで競っている時、萩原選手の視線はどのように動き、どのように写るかとても興味があります。

しかし、その射るようで、同時に精緻で冷静な視線自体は変わらないのでしょうね。


MAYUKO HAGIWARA [3A-VA-VA-3A-A-FF-∞]

2010年12月23日木曜日

LOVE IS.

Flickrで

「サイクリストの肖像 NOT LOVE BUT AFFECTION」

を開始した2009年9月。

フランスからメールを頂きました。

“技術的に見るべきものはなにもない。
だけど、ライダー達への愛と敬意に溢れていてとても良い写真だ。
それは、写真にとって一番な事なんだ。”



このメッセージは本当に嬉しくて、僕の基準の視点になっています。


2010年5月。

写真を見た知人からメールを頂きました。

“あなたの写真は欲望にまかせて撮影していて、
被写体への愛も敬意もない。
被写体を蹂躙するだけ。
あなたの写真は、被写体も、ファンも、誰も望まない。”


このメッセージはかなり考え込んでしまいました。

「被写体への愛と敬意」

同じ価値を、この二つのメッセージはまったく真逆に評価しています。


「自分は写真を撮る時、その被写体に愛と敬意を持っているか?」


その時は、なにかそれなりの反応を返したはずなのですが、明確な自信を持って使った言葉ではありません。
おそらく、かなり狼狽して、手持ちの言葉を集めて組み立て、それで身を守ろうとしたんだと思います。


おそらく、写真を撮影する時に、誰もが被写体(人物であれ、自然であれ)に愛を感じるからこそ写真を撮るのでしょう。


報道関係者は中立的視点だと言われますが、やはり人間である以上、中立的視点というのは不可能で、なんらかの感情は出るはずだし、その感情が写真に色を与え、だから、報道の写真でも芸術性が認められるんだと思います。

凄惨な戦地や被災地でも、フォトグラファーはその現実も捕らえる一方、その中の人の美しい側面の姿も捉えます。


でも、それだけだろうか?



自分の内面を掘り下げていくと、そればかりではない側面も見いだす事が出来ます。
いろんな言葉で表現できますが、根本は


「良い写真を撮りたい」


というエゴです。

「愛と敬意に溢れた写真」

とはいいつつも、その根本的な原動力は「エゴ」です。

「相手の為を思い、相手の為に撮影する」

そういう人も、もしかしたらいるかもしれない。

例えば

「ロードレースを愛していて、その振興の為に撮影する」

とか。

それを考えた時、ふと思ったのは、僕はロードレース全体という視点で、レースを撮影した事がない。


いつも見ているのはライダーだけ。
それも、ライダーの1/1000 secの時間。

「サイクリストに対して愛はあるか?」

と訪ねられたら、それは自信を持ってあると答えられます。
彼ら彼女らの、鍛錬し、逆境に挑戦し、勝利し、破れていく姿は、本当に尊敬するし、美しいと思います。

でも、僕が向ける愛情のスコープは、その個人止まりで、どうしてもそれより上位の「競技全体」という視点では捉えられないのです。

その個人に向けているから、僕は撮影した写真をその人に見て欲しい、渡したいと思うんだと思います。


ある意味、写真は、僕にとっての「手紙」みたいなもの。
それも少年が深夜2時に書いた恋文のような、自分の内面をさらし出す恥ずかしい手紙。

僕は写真を始める2008年以前、ほとんど人付き合いというものはなく、他人に感心がなく、プライベートで人に話しかけるなんて想像もしたことがありませんでした。

写真を始めた事で、世間には自分以外にも人がたくさんいて、それぞれの価値で生きて、そして戦っている。

もの珍しくて観察し、どういう人なのか知りたくて、手当たり次第に手紙を書いている。

そんな状態でした。

コミュニケーションを知らない異星人が、写真という交信手段を手に入れたようなものです。

それもスパムメール並の勢いで。

それは第三者から見たら、とても奇異で、愚かで、相手の気持ちを無視した行為に見えたかもしれません。

それはコミュニケーションとはいいつつも、一方的に自分から発信するブロードキャスト。
エゴから発生する行為です。愛があったとしても。

2010年6月

京都で開催された写真展「PEDAL STORIES」で、フォトグラファーの竹之内脩兵さんとお話する機会がありました。


“どんなに素晴らしい写真でも、遠くから相手を撮っているばかりだと、それは「盗撮」と同じだと思います。
相手の前に自分を晒し、そこでガチでせめぎ合ってこそ、なにか価値のあるものが生まれるんだと思う”




彼のこの言葉はとても印象的でした。

人を撮影するのは、やはり、どんなに言葉を飾っても、その人の権利を侵害する行為である事には代わりはありません。

僕は自分という存在を隠す事で、その人の自然な表情が捕らえられる、と考えていました。
でも、やはり、それで撮影した写真に自分はいない。少なくとも、自分の思いは入っていない。


僕はとても単純なので、その言葉を直球に受け取り、自分から声をかけ、話をし、そして、正面から相対して撮影しようと思いました。

今までは、それは単なる記念写真で、価値はない、と思っていました。
でも、愚直なこの方法は、確かに自分が働きかけないと出来ない。
逃げる事と言い訳は出来ない。

少なくとも、自分が撮った写真だと言える。


2010年8月

自分のエゴに気づきながら、そのエゴを消化できないまま、シマノ鈴鹿ロードに行きました。

あるチームのライダー達を撮影する為です。
春からメールでチームと交信を続け、自分の写真を説明し、じっくり関係を醸造してきただけに、その撮影はとても楽しみでした。

とても喜んで頂けて、言葉を交わし、それぞれポートレイトを撮影しました。
それは、今年、長い間、自分が模索していた、

「相手に受け入れられた上で、正面から撮影する」

という行為です。

とても自然な表情で、それはある意味、自分が理想とする撮影でした。

でも、それと裏腹に、心は晴れません。

ライダー達は僕を信頼してくれている事が表情から伝わります。
それは、時間をかけて説明したからこそ出来た事です。

でも、その撮影の動機は、

「より良い写真を撮りたい」

というエゴだと気づいているので、その信頼に対して、後ろめたいような、申し訳ないような複雑な気持ちでした。



2010年10月

世界選手権に行く予定が、交通事故に遭遇し、自宅で療養を続けていました。
今年中にロードレースの撮影をするのは不可能と考え、ベッドの上で、今年撮影した写真の整理をしていました。
タグをつけていく時、ふと思って、今年、話をして、正面から撮影したライダー達の写真を並べてみました。

豪快に破顔している顔
はにかんでいる顔
少しとまどって、硬い表情になっている顔
僕が言った冗談に吹き出している顔


見ていると、それぞれ撮影した瞬間の事を、すごく些細な事まで思い出します。

光の加減
風や空気の流れ
周りの音
話す時の視線の動き
話した内容


確かに同じフォーマットで、笑顔が並んでいるだけです。
そこから、いろんな情報を読み取れるのも、たぶん、フォトグラファーだけ。

でも、そこには、紛れもない、自分が写っているんです。

アイウェアに反射して。
瞳に映って
僕の話に興味を示して
僕の冗談に破顔して


それは、きっかけはエゴであるかもしれないけど、その人との時間を共有し、話をして作った、紛れもないコミュニケーションです。

泥臭く、野暮で、直球な方法だけど、それは明らかに

「愛情を表現している」

と言えると思います。


なんて遠回りで、面倒で、大げさな手紙(笑)

でも、結局、自分がした事を、最後に自分が納得出来るのは

「悔いがないぐらい真剣に考えて、そして手を動かしたか」

だけなのかもしれません。


いろんなSmilesを見ながら、そんな事を思っています。


Happy Christmas.


23-Dec-2010

kiguma



FUMIYUKI BEPPU :Le Blanc Suprême-11 
Retired KEIRIN RIDER
CRAZY FOR BASSO
SHINICHI FUKUSHIMA:  Le Blanc Suprême-67
YOSHIMITSU HIRATSUKA: Le Blanc Suprême-78
HIDENORI NODERA  : Le Noir Suprême-64
TAKASHI MIYAZAWA : L'icône de blanc
CLAUDIO CORIONI  :Le Blanc Suprême-97
OSAMU KURIMURA : le Rouge.
KENSHO SAWADA  :le visage
SAKIKO SATO : Le Blanc.
HATSUNA SHIMOKUBO : Le Blanc.
WAKA TAKEDA :Le Blanc.
AYAKO TOYOOKA :Le Rouge.
MOTOI NARA   : Le Blanc Suprême-87
HISAFUMI IMANISHI :Sorrisi/Sonrisas
COLON
TIME KEEPERS
Sign
CHIKA FUKUMOTO : cantabile (take-2)
SAKIKO SATO : expressivo(take-3)
YUKIYO HORI :vivisimo
FUMIYUKI BEPPU :vivo
YUKIHIRO DOI :stringendo
TARO SHIRATO :con anima
HIDENORI NODERA :pomposo
YUKIHIRO DOI [Le Visage]
CHIKA FUKUMOTO : Cantabile
YOSHIYUKI ABE : brillante
KANSAI-CYCLO-CROSS St-4 BIWAKO42

2010年12月21日火曜日

THE ROSE

豊岡英子選手の走りを始めて見たのは、シクロクロス全日本選手権2009(金沢)でした。

AYAKO TOYOOKA :piano forte

シクロクロスを見る事じたい始めてで、選手の事はまったく知りませんでした。

でも、始めて見るシクロクロスはとても刺激的で美しく、すぐに魅了されました。

被写体としては、自分に一番向いている競技だと思っています。

豊岡選手はその大会で優勝して5連覇。

その圧倒的実力は見ていて気持ちが良いぐらいでした。

レース後、様々な方に教えて頂きながら、少しづつ選手の名前を知り、その時に豊岡選手のブログを通じてコンタクトを取り、ブログで写真を使っていただいて、とても光栄でした。

とてもサバサバした気持ちの良い文面の豊岡選手。

2010年初戦の熊谷クリテリウムも圧倒的な実力でねじ伏せ、とても印象的でした。

6月の全日本直後、ブログとTwitterで怪我の為に暫く休養すると宣言されました。

プロアスリートには怪我はつきものでしょうが、ある意味、それは選手としての生命線と直結しているので、長期離脱する時の不安感は相当な物であったと推測します。

そして、8月下旬の鈴鹿ロード。

豊岡選手はウィラースクールの講師として参加してらっしゃって、偶然、会場で短い間、お話を伺う事が出来ました。

始めてお話した印象は、

「とても繊細な方」

という印象でした。

話される言葉の選択は慎重で、丁寧に床に卵を置いていくように話されます。

ポートレイトの撮影をお願いすると、快く引き受けてくださいました。

最初のショットは表情が硬く、2枚目は僕が冗談を言って、若干表情が緩んでいます。
そういう時って、粘って表情を捕らえようとする人もいるのかもしれないのですが、僕はその表情がとても好きでした。

その時の、豊岡選手の心情でもあると思うからです。

AYAKO TOYOOKA :Le Rouge.

ポートレイトは単体で完成された作品ではなく、人間である以上、その人の人生の時間での流れを記録する作品でもある、と思っています。

人間は人生のどの部分を切り取っても、喝采に囲まれているわけではありません。

むしろ、華やかな側面なんて、ほんの数パーセントで、後は暗く、葛藤にまみれ、地を這うような苦悩に囲まれている事が多いでしょう。

12月の全日本シクロクロス。

豊岡選手は優勝され、全日本6連覇を達成。

そこに至る苦悩や葛藤は、当人でしか分からない。

ただひとつ。

レースが終わった後、多くの女性のファンの質問に丁寧に答え、ご自身からポーズをとられ、皆に微笑むその表情は、今まで見たどの瞬間よりも、人間としての奥行きが感じられ、嫋やかで、とても美しい表情でした。
AYAKO TOYOOKA :Cantabile

プロアスリートは成績が全てであり、それは否定できない現実です。
でも、そこへ至る、身をよじるような苦悩と葛藤、そして、その修羅に潰されていった多くの血。

それらがあるから、やはり成績は美しく輝いて見えるんだと思いました。

冬を雪の下で種で過ごし、春に咲く薔薇のように。

AYAKO TOYOOKA : THE ROSE

2010年12月20日月曜日

Body & Soul

「健全な肉体に健全な精神が宿る」




子供の時、この言葉はとても嫌いでした。

主な理由は「健全な精神」という言葉です。

「健全」という言葉は、とても傲慢な目線で、つまり、大人の世代に都合良く見える状態を「健全」という枠に当てはめているように感じていました。


今年9月に交通事故に遭遇し、被害者として現在リハビリを続けているわけですが、その状態になって始めてこの言葉の持つ意味を感じます。

でも、僕が感じた意味から、正確な言葉に翻訳してみると



「健全な肉体は、精神の色や形の選択オプションを持つ」



という事になります。


当初一週間、ほぼ寝ている事しか出来ず、寝返りも、くしゃみも出来ない状態でした。
世の中にはもっと辛い状態で闘病していらっしゃる方がいるでしょうが、その状態であっても、前向きな考えを維持するのは努力がいる状態でした。

体の自由がきかない、という事は、確実に、自分の可能性の選択肢が狭まっている状態です。

診断の結果、二ヶ月で怪我は回復する、と聞いていても、人間の想像力は、現状を足がかりするしかなく、やはり不安と、世界からの孤立を感じずにはいられません。


11月中旬からリハビリを開始し、12月から職場にも復帰。

そして、12月11日~12日に、全日本シクロに撮影に行きました。

正直、現状の体力で、全日本レベルのレースを撮影する事に不安はあったのですが、いろんな人に回復した状態で挨拶したいと思ったのと、事故により、自分の撮影スタイルが、どのように変化したのか見届けたい、という思惑もありました。



写真の撮影には体力がいる、というのは良く聞く話です。



一般には、重い機材を運搬する為の体力と認識されています。

でも、僕が考える体力の必要性は

「長時間、高レベルの集中力を維持する為」

だと思っています。


レースの撮影では、以下の作業を延々と繰り返します。


  • 天候と光量を読み、露出設定を変更する。
  • 被写体に対して、瞬時にフレーミングを決定する。(構図、倍率)
  • フォーカスポイントを設定する
  • フォーカス距離ロックを変更する。(使用レンズにより、この操作は異なる)
  • プロトン通過時、瞬時に次のAFポイントを選択し、AFロックをかけ、シャッターを押す
  • プロトン通過時にメディアの残量をチェックする。



以前、ジムでダンスのレッスンを受けた時、講師の方の動きを見ていて、全身、そして指先まで神経を通わせて、柔軟に制御する凄さを感じました。

意志で体をコントロールできている状態です。

アスリートはこの状態に体を持って行くのでしょうが、ダンサーの動きを目の当たりにすると、それを強く感じました。

カメラはダンスに比べると、操作する範囲は狭く、その操作自体は容易ではありますが、

・ダンサーは意志で体を制御する

のに対して、

・フォトグラファーは意志で光を制御する

と言う事が可能かと思います。

先に述べたカメラの操作。
あれは考えながらしているのではありません。

天候を見て、光の状態を意識し、プロトンが活性化しているのであれば、各選手が、次にどのように動くかを推測する。


インプットからアウトプットは、ほぼ瞬時で、反射的です。


その状態は、一種トランス状態に近いともいえ、感覚を維持する為には、高度な集中状態を維持しなくてはいけません。

でも、そのような集中状態を維持するのは、とてもコストが高く、全日本ロードに至っては、ほぼ6時間に渡る状態の維持が必要で、その土台は体力です。


基礎となる体力がないと、集中力は消え、今までは気にならなかった周りの騒音や、空腹感や、疲労感が襲ってきて、それがノイズとなり、ミリ秒単位の判断が出来なくなります。



そう、シンプルに言えば、健全な肉体が必要な理由は、

「判断が出来る土台」

であるからです。

肉体に異常がある場合は、全ての判断が、受け身で、付け焼き刃になってしまいます。
そこに意志の判断が介入する余地はありません。


健全な肉体が、自動的に、健全な魂を生むのではなく、最善な判断を可能にするのです。

でも、「判断する力」こそ、「健全な魂」だと思います。

与えられた価値観に盲目的に従うのは、判断を放棄した不健全な状態ですよね。

健全という判断が、相対的な価値観でしかなく、失敗から学び、状態を監視する判断こそが、唯一信頼でき、意味のある価値だと思います。


THE SMOKE WALL

2010年12月19日日曜日

Metamorphosis

武田和佳選手は、撮影するたびに、とても印象の異なる方です。

チームのプロフィールの写真では、年齢より、かなり大人びて見えるのですが、

・全日本ロード2010
・シマノ鈴鹿ロード
・全日本シクロ2010

それぞれ、まったく印象が異なり、特に、レース中の表情だと、とても幼く見えたりします。

鈴鹿でポートレイトを撮影した時は、それほど話す事がなく(唯一、ヴィスコンティのような表情をしてください、と伝えたのみ(笑))、ゆっくりお話が出来たのは、全日本シクロの会場でした。

全日本前日の関西シクロ。
会場で、武田選手は、キヤノンの1Dというプロ用のごついカメラを持って撮影していました。

「カメラお好きなんですか?」

「いえ、お父さんに撮影頼まれて(笑) お父さん、次々になんか買っちゃって困っちゃうんですよ」

そういいつつも、楽しそうに撮影される武田選手。


先ほどの「印象の変化」について伺ってみると、


「確かに、皆から、全日本で撮影された写真だと、とても幼く見えると言われました(笑)」


鈴鹿の時も、マイアミの時も、どちらかというと、緊張されるタイプのようで、正面から撮影した写真は、表情が硬いのですが、ポートレイトの面白いところはそこだと思います。

撮影者は、やはり表情を要求したり、作ったりしてはいけない。


会った時の状況を再現するのがポートレイトだと思うので。

先ほどのヴィスコンティの例では、緊張を和らげるための会話をしましたが、それは表情を作るというよりも、相手に信頼してもらうためのプロトコールのようなものです。


マイアミのでの会話の中で、今回の結果で、世界選代表にかなり近づけそう、と嬉しい反面、少し緊張した表情で話されていました。

結果は6位。セレクションのポイントを獲得されたそうです。

武田選手にとって、その結果の価値はどうだったのか、それは分かりません。

しかし、レース中の集中した視線はとても印象的で、彼女がこのレースに賭けている事を物語っていました。


今回も、また初めてみる表情でした。


2010年12月19日 9:24

WAKA TAKEDA :Vivace

KANSAI-CYCLO-CROSS St-4 BIWAKO56

WAKA TAKEDA :Adagietto

WAKA TAKEDA :THE ROSE

2010年12月18日土曜日

Eyes


MASAMI MORITA :Presto
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僕が撮影した写真を選択する場合、最も重要なポイントと思っているのは「視線」です。

「眼」が生きている、というのはとても重要です。

僕の写真は、そのほとんどがバストショットか、それ以上です。

一般にスポーツの写真は、競技そのものを見せる必要性から、寄る事はありません。

その競技自体を見せるためには、少なくとも競技者の体全体は必要で、それ以上寄ると、とたんに情報が減少するという認識があるものと思われます。


僕が今のスタイルを採用したのは、2009年のシマノ鈴鹿ロードで、偶然、ゴールに飛び込んできたサイクリストのアップをとったからでした。


確かに、顔をクロースアップした場合、極端な話をすれば、それが自転車競技かどうかも分からない。

でも、削れた情報の分、圧倒的に増す情報があり、その最たるものは「視線」です。


視線が写真に動きを作り、

視線が写真に隠された物語を語る


写真は、2009年全日本シクロの森田正美選手。

自転車を担いで急勾配を一気に上がる、いわゆる「担ぎ上げ」のセクション。

この時、僕は、彼女のほぼ1.5メートル横。


バイクを下ろす直前、レンズを一瞥して通過しているところです。

この時、彼女はなにを思っていたのか。

本人でない我々は推測する事しか出来ません。


でも、一つの視線から、様々な推測ができ、それが奥行きを与えます。


視線は狙って捕らえるものではないと思います。


「視線」を要求して捕らえた視線は、やはり「死んでいる」


偶然の産物だからこそ、一期一会の趣があり、美しいのかもしれません。

JOY

全日本シクロの前日、友人に誘われて、勝負所の砂丘で試走をする選手達を撮影していました。

福本千佳選手は、下りの大きく右へカーブする傾斜を、何回も丹念に試走していました。

撮影している僕を見て、僕が遭遇した事故を心配して声をかけてくれました。

「このコースだと、福本さんのように、小柄な人でもチャンスがあると聞きましたけど、どんな感じですか?」


「いやぁー(笑)。。」


微妙な表情で笑いながら首をふる福本選手。


暫く話した後、試走を再開したところ、ファンの人たちが大きな声援(いわゆる黄色い声)を送ります。

写真は、その時のもの。


彼女がいつもすごいと思うのは、将来を期待されて、成績も出し、プレッシャーも、かなりあると思うのですが、それが表からは感じられず、とにかく、全日本を翌日に控えたこの時でも、走る喜びに満ちあふれている事です。

「楽しい」


という気持ちは、忘れがちで、でも、とても重要なスキルだと思います。


決して「楽(らく)」ではないけど、「走る喜び」というものがあるなら、それは、様々な困難を乗り越える一番の原動力かもしれません。


その気持ちは、これからもずっと続くのか、あるいは、別の気持ちに昇華されるのか。


でも、どのような心持ちになるのであれ、最初の「楽しい」気持ちが鮮烈であればあるだけ、必ず訪れるであろう苦境でこそ、自分を見失わないベースになると思います。


彼女を見ていると、どのような花になるかわからない種の成長を見ているような期待感がわきます。