2011年3月11日 19:00頃
母は自宅で震災の報道を見ていた。
まるで窓に残る泡を拭きとるかのように、津波で消失していく建物。
その泡の一つ一つの瞬きの中に人の命が消えて行く。
彼女はその感覚もなく、ただ無感覚に、それでもテレビから目が話せなかった。
彼女は膝に3歳になる孫娘を抱き、そして、なぜか、ジョンレノンの”imagine”を口ずさんでいた。
歌詞は漠然としか知らなかった。
でも、そのメロディーは覚えていた。
唯一記憶している冒頭の部分を、繰り返し繰り返し歌っていた。
Imagine there's no Heaven
想像してごらん。天国なんてないんだって。
It's easy if you try
簡単な事さ。試してごらん?
この曲を最初に聴いたのは、映画”The Killing Fields”の挿入歌としてだ。
カンボジア内戦を描いたこの映画の中で、唯一覚えているシーンは、クメール・ルージュに銃殺された死体の山の中を、主人公の一人であるカンボジア人の通訳が彷徨うシーンだ。
(もしかすると劇中の挿入歌ではなく、予告編の映像だったかもしれない)
死屍累々の凄惨な土地を、無感覚で彷徨う男。そして、その現場になんとも合わない牧歌的なピアノと詩。
You may say I'm a dreamer
君は僕を夢想家だと言うかもしれない。
But I'm not the only one
だけど、そんな夢想家は僕だけじゃない。
I hope someday you'll join us
いつか君にも分かる日がくるといいな。
And the world will live as one
そして世界はひとつになるんだ。
僕はこの詩がとても嫌いだった。
授業や映画で様々な反戦運動の形態を見たけど、どの運動も、戦争のない、恵まれた環境の若者の暇つぶしにしか見えなかった。
現代的に言うなら、「中二病」だ。
「代案もない。方法も分からない。だけど平和はいつか来る」
大人になるにつれて、ジョンレノンの様々なドキュメンタリーを見た。
彼の行動、彼の考えをいろいろ見ているうちに、思ったのは、
「ジョンレノンにとって、平和活動はファッションだったのかもしれない」
記録を見ると、とても捉えどころのない人物だ。
変幻自在で、生涯を通じての一貫したテーマというものはない。
時代時代で様々なトレンドを取り入れ、貪欲に吸収していく。
彼にとって、その晩年には「反戦活動が、今キテいる」状態だったのかもしれない。
村上春樹の小説、「ノルウェイの森」
原作にあったかは記憶が定かではないが、映画の冒頭で、大学の授業中に、学生運動を行う生徒が授業を占拠して演説を始めるシーンがある。
彼らは恐怖を解いて運動への参加を生徒に訴える。
「明日にも戦争が始まる」
現代に至るまで、強い主義主張を持つ集団、個人は、自らを選民と思う。
そして、自分たち以外の哀れな大衆を「啓蒙」しようとするのだ。
それが戦争であったり、イデオロギーであったり。
啓蒙に恐怖を使うのは、もともと宗教の手段でもある。
でも、恐怖を使う啓蒙は、我々の心に響かない場合が多い。
それは、我々の前に日々提示される情報量が膨大になった事で、プッシュする力の強いメッセージに対して、無意識にフィルタをかけてしまうからだと思う。
限られた情報しかない時代、少ない情報の中で、プッシュ啓蒙は効果があったのかもしれない。
だけど、現在は、スケジュールからおすすめ番組、たわいないチャットまでが全てプッシュ情報だ。
恐怖を唄う啓蒙は、現代人にとっては、無意識にフィルタするスパムに近いのかもしれない。
純粋にまっすぐに信じる人ほど、強く啓蒙する傾向が強く、脅迫に近くなる事も多い。
そう考えると、このジョンレノンの牧歌的な詩はすごく新鮮だ。
とてもシンプル、そしてとても抽象的。
だから、時代を超えて、人々にヴィジョンを提供し続けるのかもしれない。
僕は、人間の社会から、差別や宗教や戦争がなくなる事はないと思っている。
人である限りは。
だけど、この歌を聞くたびに思う。
「人間はこんな事も考える事が出来るんだ」って。
ヴィジョンってそういうものだ。
それは方向だから。
アーティストにはそれが許されるんだ。夢物語が。
現世の人間は、現実のソリューションを常に提案しなければいけない。現実の落とし所を見つけていくと、なにが目的なのかわからなくなる。
最終的な料理の仕上がりをイメージしていなければ、夕食の買い物のチェックリストを潰す事は出来ない。
最終的なヴィジョンがなければ、政治も経営も動けない御用聞きと一緒だ。
レノンのヴィジョンがとてもシンプルで、夢物語であっても、陳腐化せずに、ずっと人に語り継がれるのは、それが完全に抽象化された単純な「夢」だからだ。
だから、彼はそれを本気で信じたり、本気で目指したわけではないと思っている。
突き放しているから、欲を捨てて、ヴィジョンが純化されたんじゃないかな。
簡単なようでいて、これほど難しい事はない。ある意味、悟りに近い。
仕事だけを突き詰めてきた自分にとって、写真はレノンの平和運動と同じだったのかもしれないと思う。
現実を離れて、純粋に突き詰めたいヴィジョンだったんだ。