2011年11月7日月曜日

imagine


20113月11日 19:00頃


母は自宅で震災の報道を見ていた。

まるで窓に残る泡を拭きとるかのように、津波で消失していく建物。
その泡の一つ一つの瞬きの中に人の命が消えて行く。

彼女はその感覚もなく、ただ無感覚に、それでもテレビから目が話せなかった。
彼女は膝に3歳になる孫娘を抱き、そして、なぜか、ジョンレノンの”imagine”を口ずさんでいた。

歌詞は漠然としか知らなかった。
でも、そのメロディーは覚えていた。
唯一記憶している冒頭の部分を、繰り返し繰り返し歌っていた。



Imagine there's no Heaven

想像してごらん。天国なんてないんだって。

It's easy if you try

簡単な事さ。試してごらん?




この曲を最初に聴いたのは、映画”The Killing Fields”の挿入歌としてだ。
カンボジア内戦を描いたこの映画の中で、唯一覚えているシーンは、クメール・ルージュに銃殺された死体の山の中を、主人公の一人であるカンボジア人の通訳が彷徨うシーンだ。
(もしかすると劇中の挿入歌ではなく、予告編の映像だったかもしれない)

死屍累々の凄惨な土地を、無感覚で彷徨う男。そして、その現場になんとも合わない牧歌的なピアノと詩。


You may say I'm a dreamer 

君は僕を夢想家だと言うかもしれない。

But I'm not the only one 

だけど、そんな夢想家は僕だけじゃない。

I hope someday you'll join us 

いつか君にも分かる日がくるといいな。

And the world will live as one

そして世界はひとつになるんだ。



僕はこの詩がとても嫌いだった。
授業や映画で様々な反戦運動の形態を見たけど、どの運動も、戦争のない、恵まれた環境の若者の暇つぶしにしか見えなかった。
現代的に言うなら、「中二病」だ。


「代案もない。方法も分からない。だけど平和はいつか来る」




大人になるにつれて、ジョンレノンの様々なドキュメンタリーを見た。
彼の行動、彼の考えをいろいろ見ているうちに、思ったのは、

「ジョンレノンにとって、平和活動はファッションだったのかもしれない」


記録を見ると、とても捉えどころのない人物だ。
変幻自在で、生涯を通じての一貫したテーマというものはない。

時代時代で様々なトレンドを取り入れ、貪欲に吸収していく。

彼にとって、その晩年には「反戦活動が、今キテいる」状態だったのかもしれない。


村上春樹の小説、「ノルウェイの森」

原作にあったかは記憶が定かではないが、映画の冒頭で、大学の授業中に、学生運動を行う生徒が授業を占拠して演説を始めるシーンがある。

彼らは恐怖を解いて運動への参加を生徒に訴える。


「明日にも戦争が始まる」


現代に至るまで、強い主義主張を持つ集団、個人は、自らを選民と思う。
そして、自分たち以外の哀れな大衆を「啓蒙」しようとするのだ。

それが戦争であったり、イデオロギーであったり。

啓蒙に恐怖を使うのは、もともと宗教の手段でもある。

でも、恐怖を使う啓蒙は、我々の心に響かない場合が多い。

それは、我々の前に日々提示される情報量が膨大になった事で、プッシュする力の強いメッセージに対して、無意識にフィルタをかけてしまうからだと思う。

限られた情報しかない時代、少ない情報の中で、プッシュ啓蒙は効果があったのかもしれない。

だけど、現在は、スケジュールからおすすめ番組、たわいないチャットまでが全てプッシュ情報だ。

恐怖を唄う啓蒙は、現代人にとっては、無意識にフィルタするスパムに近いのかもしれない。

純粋にまっすぐに信じる人ほど、強く啓蒙する傾向が強く、脅迫に近くなる事も多い。

そう考えると、このジョンレノンの牧歌的な詩はすごく新鮮だ。

とてもシンプル、そしてとても抽象的。

だから、時代を超えて、人々にヴィジョンを提供し続けるのかもしれない。

僕は、人間の社会から、差別や宗教や戦争がなくなる事はないと思っている。
人である限りは。

だけど、この歌を聞くたびに思う。

「人間はこんな事も考える事が出来るんだ」って。



ヴィジョンってそういうものだ。

それは方向だから。

アーティストにはそれが許されるんだ。夢物語が。

現世の人間は、現実のソリューションを常に提案しなければいけない。現実の落とし所を見つけていくと、なにが目的なのかわからなくなる。

最終的な料理の仕上がりをイメージしていなければ、夕食の買い物のチェックリストを潰す事は出来ない。

最終的なヴィジョンがなければ、政治も経営も動けない御用聞きと一緒だ。


レノンのヴィジョンがとてもシンプルで、夢物語であっても、陳腐化せずに、ずっと人に語り継がれるのは、それが完全に抽象化された単純な「夢」だからだ。

だから、彼はそれを本気で信じたり、本気で目指したわけではないと思っている。

突き放しているから、欲を捨てて、ヴィジョンが純化されたんじゃないかな。

簡単なようでいて、これほど難しい事はない。ある意味、悟りに近い。

仕事だけを突き詰めてきた自分にとって、写真はレノンの平和運動と同じだったのかもしれないと思う。

現実を離れて、純粋に突き詰めたいヴィジョンだったんだ。