2011年7月30日土曜日

場を支配する力

落語というものを最初に見たのは偶然だった。

「桂ざこば」さんの高座がNHKで放送されていた。

録画した映画を見ようとテレビをつけたときに、最初に映しだされた番組だ。

僕の落語の知識は、「老人の土曜昼のノスタルジックな楽しみ」ぐらいだったので、普通ならそのまま映画を見たと思う。

でも、その時は思わずそのまま見てしまった。

演目は「愛宕山」

遊びに飽きた大旦那が、お茶屋の舞妓、芸妓、そして太鼓持ち二人を連れて、愛宕山まで野駆け(ピクニック)に行く話だ。


僕が見ていて驚いたのは、冒頭のシーン。

噺家は冒頭で、物語の背景を話す。

・現代にはない「太鼓持ち」という職業の事。
・二人の太鼓持ちの過去
・大旦那が野駆けを提案して、繰り出す過程

そこまではイントロダクションだ。

そして、ここに「ちりとてちん」で一躍有名になった台詞がはいる。


「その道中の陽気なことぉー」


噺家は手を広げ、同時にはめもの(お囃子と鳴り物)が奏でられる。

まったく落語の知識のない僕が、その瞬間、目の前に広がる京都の野辺の、蓮華とたんぽぽが咲き乱れる様子が目に浮かんだのだ。

比喩でもなんでもなく、色彩のない説明のモノクロームの世界から、一気にカラー映像がワイドビジョンで広がる感じだ。

映画、「オズの魔法使い:Wizard of OZ」のように。

そこからは完全にテレビを見ている事さえ忘れ、ざこばさんの一挙一答速に見入っていた。

本当に魂を抜かれた印象だった。




落語という表現は、究極の「すべらない話」だとも言える。

古典落語は誰でもその結末を知っている。
だから、話の構造と転換で笑いを取る事はできない。

たった一人、舞台に登る噺家が、しかも座布団という狭い世界の上で、客に広がりを提示しなければならない。


笑いは得ることがとても難しいリアクションだ。

涙を得る事に必要とされるメソッドは比較的狭く、方法論も確率されている。

しかし、笑いは、そこに至る人の感情の流れが幅広く、しかも、職業的に安定した笑いを得る事はとても難しい。

落語を実際に見るとわかるが、噺家に必要な第一のスキルは話芸ではない。


「場を支配する力」だ。


観客は誰でも、その話全体、結末も含めて知っている。
内容は、歴代の名人と言われた人間が、繰り返し演じている。
舞台は一人。

ある意味、ITTよりも厳しく、孤独な環境だ。


名人と呼ばれる噺家と、一歩抜きん出ていない噺家の一番の違いは、観客がその話に入り込めるかどうかが大きい。

名人の場合、知らない間に魅了され、客は知らない間に、その物語の中にいる。

凡庸の噺家の場合、客は物語の中におらず、自分の目に浮かぶのは、情景ではなく、スクリプト(脚本)だ。

その違いはどこにあるんだろう、と、つねづね思っていた。

噺家の名声とキャリアもあると思う。

期待感は、笑いに対するハードルを下げる効果もある。
舞台を温める、と言われる効果だ。

純粋なスキルもあると思う。

僕が思う落語のスキルは、ポイントの強調と、ポイント以外の削除だ。

笑いという作用は、多くの場合ギャップに対して生まれるので、+部分を強調し、ー部分を消していけば、そこに笑いが生まれるのは自然だ。

ユーモアのセンスは、多くの場合、その強調ポイントを見つけるセンス。

スティーブ・ジョブズのプレゼンは、コメディーではないが、強調とギャップを利用した好例だと思う。


そして、たぶん一番大事な要素。

演者と会場、はねもの、照明を含めた全ての流れを掌握し、コントロールするセンスだ。

落語でもプレゼンでも、凡庸な演者は、演じている時の視点が自分だけだ。

脚本をなぞるだけ。

名人と呼ばれる人は、観客の笑いのトーン、拍手の数から状態を瞬時に把握し、一番効率的な話術の展開を計算する。

まるで、会場全体がオーケストラで、噺家が指揮者のようだ。

NBA選手だったマイケル・ジョーダンは引退時にこう語った。


「本当にコンディションが良い時、周りの選手は、僕の操り人形のようだった。彼らの動きはすべて、先々まで把握できて、そして僕の自由になった。」


それはオカルティックな超常の力ではない。

明確なベースラインがあり、そして、状況によって高速に戦術を計算し、Plan-Do-Checkのイテレーションを高速に繰り返す芸術だ。


ロードレースでも、実社会でも。

場を支配する人間というもの存在し、でもそれは決して、外見的な威圧や、言動による威圧だけではない。

単純な力の威圧は、猿社会のヒエラルキーと同じで、短い時間に損耗し霧散する。

状態とニーズをつかみ、なおかつ、その斜め上を提示して初めて、

「場を掌握する」力が生まれるんだと思う。


全日本選手権では、別府史之選手ににもっともその力を感じた。















If You Love Somebody, SET THEM FREE.

2011年7月21日木曜日

依存

孤立(Stand Alone)の状態で生きている人間はいない。

必ず他者、モノ、時間、知識、組織。そして、それらとのネットワーク関連構造に依存して生きている。

プログラミングの世界での鉄則がある。

「依存関係を最小にする事」

AモジュールがBモジュールに依存してるとする。



(例)

Aモジュール:ホイール
↓依存
Bモジュール:ミシュラン・タイヤ


この場合、タイヤをミシュランからダンロップに変更しようとすると、Aを作り直して、Cモジュール:ダンロップ に依存先を変更する必要がある。

タイヤとホイールの関係は規格化されている。

つまり、ホイールからタイヤ全体を集合として見ると、このような関係になる。



Aモジュール:ホイール
↓依存
インターフェース:タイヤ規格(タイヤ幅、扁平率、リム径)
↑適合
Bモジュール:ミシュランタイヤ
Cモジュール:ダンロップタイヤ

この状態になり、ホイールは特定のタイヤという存在に縛られず、ホイールにとって必要な情報だけを概念として抽出し、具体的なタイヤには縛られない状態になる。




仕事や日常生活で、特定の存在に依存する例はとても多い。

例えば、中学生が読むような雑誌で、

「こうすればデートが成功する」

みたいなHow To特集があったとする。
食事をするお店の評判を事前に調べて検討し、相手の好むプレゼントを用意し、話題はどのようなモノがいいか、という事が延々と書いてある。

ある男の子は、このステップを全て、必死で暗記するだろう。

別の男の子はこう考えるかもしれない。

「この本が言いたい事は、つまり女の子の立場になって、思いやりを持て、という事だ」


一人目の男の子は、デート本自体に依存した。
二人目の男の子は、デート本の「概念」だけを抜き出し、それに依存した。


人、モノ、知識、時間。

様々なモノに依存しなければ生きていけないのが人間だけど、特定のなにかだけに依存しなければいけない状況は、実は少ない。


システム開発の現場には、多種多様な方法論が存在し、時々、各派閥が宗教論争のような議論になる事がある。

その人達は、特定の方法論に依存しているのだ。
大事なのは、自分が置かれている「現実」に、方法論の「概念」を適合させる事なのに。


人の恋愛感情もそうかもしれない。

人が人に惹かれるのは、その存在自体というより、その存在が持つ「Something Special(特別なモノ)」だ。
存在自体に価値を見いだすと、それは神への盲信と同じ。完全な依存だ。

自分から見た、その人の「Something Special」が変容した場合、
良い方向へ導く事も出来るかもしれない。
それが無理なら、去る事も出来る。


存在自体に価値を見いだすのは、愛ではない。宗教だ。


インターフェースを知る事。

それは、なにをするにも、一番大事な事なんだ思う。



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2011年7月11日月曜日

Death & Rebirth

随分以前に読んだ新聞記事に、昔の従軍カメラマンの記事が掲載されていた。

ベトナム戦争の初期まで活躍したとあったから、ロバート・キャパ達の次の世代の人なのかもしれない。

彼はある日、唐突に引退を表明する。

最後のメッセージはこうだ。


「死体の山を前に、美的構図を探している自分に嫌気がさした。」



報道をする、という意味で写真を考えた場合、必ずそのジレンマに突き当たる。

報道というのは「真実を伝える」事。


1.自分が伝えたいものを撮影する為に、撮影技術を用いてその瞬間を静止させる。


2.ただ、フォトグラファーの技術と視点を通してフィルタされたその瞬間は、すでにフォトグラファーというフィルタを介した瞬間である。


それは言葉でもそうだ。必ずフィルタはかかる。

だけど、映像の持つ力は悪魔的だ。

その瞬間がセンセーショナルであればあるほど、考える間を与えず、受け手の本能に肉薄する。

なぜなら、想像するというプロセスを経る文字情報と異なり、ダイレクトに視神経を刺激する映像は、真実としての装いが巧妙だからだ。


短期的に写真という媒体を、貨幣価値に換算した場合、高い付加価値を持つものは、センセーショナルでショッキングな映像だ。

ゴシップ、事故。

瞬発的に取引される、貨幣にも等しい圧倒的兌換性を持つ情報。
報道を経済活動として見ると、それが尊ばれるのは当然かもしれない。


ジロの死亡事故の時の映像を、写真家の砂田さんは「尊厳の問題」と評した。
価値があるとしても、個人の尊厳は守られるべきだと。

グランツールのような価値の高い市場の場合、フォトグラファーの数も多いし、競争も激しそうだ。

事故で苦痛にあえぐ選手の正面からシャッターを押す人達を見ていると、正直、あまり心地の良い感想は持てない。



今年の5月のツールド熊野。

アマチュアではあるが、プレスという立場で撮影する機会に恵まれた。

その時まで、僕は完全に自分の為だけに撮影していた。
自分が見たい映像を見る為には、自分で撮影するのが一番効率がいいからだ。

その時、初めて「人に伝える」という意識で撮影した。

自分が見たもの、自分の感情。

リザルトだけでは風化する皮膚感覚、ざらりとした触感。

そういったレースの現場特有のものを伝えられたらと思った。


レース後の選手達の様々な表情。

僕はレースを終えた時の選手達の表情は、レース全体を通しても、もっとも雄弁に内面を語っているように思えて、とても好きだ。

だけど、「伝える」事を意識した時、伝える事の道義的責任について悩む事も多い。

被写体は、その内面を知られたくないかもしれない。
それを無遠慮に暴くような行為は暴力かもしれない。

これって人を撮影する時に、常につきまとう「罪」の意識だ。

死や破壊はその究極の形態だが、ある意味、レースという極小の生存競争は、仮想的な「死と再生」なので、毎回、そのジレンマはつきまとう。

ただ、撮影している時は、それを感じる事は少ない。

熊野以前は、撮影していて、アドレナリンが出るような高揚を覚える事が多かったが、プレスという立場でファインダーを見ると、水のように客観的で、冷静な自分がいた。

だから悩みもない。

自分がそこにまるでいないかのような感覚。

葛藤は後から来る。

写真のセレクションをする段階で。

報道であるという事を踏まえると、自分がそれを公開する事は、常に自分に「人間の尊厳」を問い直させる。

だけど答えはないのだ。

短絡的なセンセーショナリズムかどうかは、時が解決するだろう。

短期的なセンセーショナルは兌換制の高い情報ではあるが、それはギャンブルに費やすコストと同じ。
なにかを生み出す事のない一時的愉悦だ。

葛藤の末に出す意味があると判断したもの、それは時を経過した時に、リザルトに残らない皮膚として、必ず意味を持つと信じている。

当然、その時の判断が間違う事もあるだろう。重要なのは、その間違いから学ぶ事だ。

自分の選択に間違いがあれば、それは自分が支払い義務をおうべき負の資産だ。自分で返済すれば良い。

写真を撮っていて怖いのは、自分の行いを顧みる事がなくなる事。

自分が正義だと思うと、必ず破綻をもたらす。

だけど、自分の行動の決定をしない場合、結局はなにも生み出す事は出来ない。

決定し、内省し、失敗から学ぶ。

人の価値観は多様だが、固定化された属性ではない。

変化しない事を選択した場合、自分の全てのエネルギーは、ゆっくりとした死にむかっていくんだろう。






【Der Spiegel】Tour de KUMANO 2011   19349
【Der Spiegel】Tour de KUMANO 2011   19302
If You Love Somebody, SET THEM FREE.
If You Love Somebody, SET THEM FREE.

2011年7月7日木曜日

Cheerers w/Love

スポーツを応援する。

特にスポーツ観戦に興味がなかった僕は、初めて映像で見たロードレースのシーンがとても印象的だった。

初めて映像で見たのはDVDの、2003年のツールだ。
特に印象に残ったのは、山岳ステージでの観客の熱狂ぶりだ。
スポーツを応援する、というよりも、なにか宗教儀式であるかのように、選手に併走し、足を踏みならし、拳を振り上げて叫ぶ。

競技内容はまったく分からなかったが、山を登る選手達の姿を見て、頭に浮かんだシーンは、


「ゴルゴダの丘を十字架を背負って登るイエス」



だった。

観客の常軌を逸したように見える熱狂は、重荷を背負い困難に挑む人間に対する原始的な本能なのかもしれない。
(極限状態に自らを置き、仮想的に死に近づき、そして復活するからだ)


多くの人は、最初は競技全体の空気に惹かれ、そして、いつしか、特定のチーム、選手のファンになっていく。

雰囲気という抽象的なイメージから、より感情移入しやすい具象集合へと関心が移るからだ。


特に日本国内では、ロードレースは決して恵まれた環境にあるスポーツとは言えない。

それ故、ファンの人々はこの競技、応援するチーム、個人に対する思い入れがとても強い。
そして、とても繊細で、応援する対象への批判、あるいは心ない発言にとても傷つきやすい。


僕はその繊細さがとても不思議だった。
そこまで想い入れて応援するのはなぜだろう?と。


最近になって、漠然と理解できた事がある。




プロ野球チームに阪神タイガースというチームがある。熱狂的なファンが多いチームだ。

ファンはそれぞれ強い思い入れを持っている。

85年に優勝した当時のファンは
「豪快に打撃で勝つスタイルが阪神の持ち味」
と語る。



90年代、最弱の時代のファンは
「ダメな子ほどかわいいのと一緒。強くなったら困る」
と語る。



2003年以降、常時Aクラス入りする強豪になった時代のファンは
「勝負にこだわり、投手力で決定するのが阪神の持ち味」
だと語るだろう。



そう、プロ野球球団というのは、固定された永続的な特徴があるわけではない。
時代時代の監督により戦略は異なり、ポリシーは異なり、選手により成績も、強みも弱みも変わる。

特徴というよりも、持ち味はその歴史だ。

ファンになったきっかけは、ファンの数ほどある。
きっかけはひとそれぞれ。千差万別だ。

時間が経過するにしたがって、応援するという行為は、ファンの生活の一部になる。

優勝した時に
恋人と別れた、あるいは結婚した。
独立した、仕事を失った。
子供が初めてしゃべった。子供が結婚した。

そのチームの歴史は、そのファンの人生とシンクロし、もやはきっかけは思い出せなくとも、それは自分に寄り添う人生の不可分なピースだ。

それが大切でなくてなんだろう?


野球に比べて自転車チームの寿命は短い。
運営母体は同じでも、ポリシーはかなり変更される。

だけど、きっかけはそれぞれとして、ファンになった事で、その人の人生と寄り添って存在するチーム。
自分が辛い時に、それを忘れさせる感動を与えてくれ、そして自分が幸せな時に、選手の不運に涙する。

だからこそ、それを批判される事は、自分の人生を否定される事に等しく感じるのかもしれない。

きっと批判する人も、それぞれの大事なピースの為に批判するのだろう。
それは大人げない行為ではあるが、愛情の表現の一つではある。


愛情を注ぐ対象がある、という事は、とても幸せな事だ。
それを表現する手段は一様に美しくないかもしれないが、僕はこう思うようにしている。

「誰もが愛しいものの為に生きて、言葉を語る。」

その言葉は自分には辛く、都合が悪いものかもしれない。

でも、どの表現も、愛から導き出されている。

人間の繊細な感情が分からない僕は、そういう風に、極端に感情を抽象化して考えるようにしている。




悪意が存在の基底にある人間はいない。

ありとあらゆる人の営み。
努力も精進も、軋轢も、中傷も、そして戦争も。

全ての営みの根底は何かに対する「愛」であり、そして自分の「愛」を誇示する競争なのだ。



YUKIYA ARASHIRO

IL DIAVOLO

THREE KINGS OF MOUNTAIN

Legacy

a Papa's Favorite.

Un trésor

2011年7月1日金曜日

ゴーストはささやく

仕事でも、学業でも、

年に一度、全てを犠牲にしてでも得たい成果というのは、頭に浮かびません。

受験でも、論文でも、大きなプロジェクトの契約でも。
人生で必ずその人の節目となる重要な転機は巡ってきますが、「毎年」の頻度ではまず出現しないですよね。

それほど重要な分岐点の選択が毎年出現すると、まず一般人は精神的に耐える事が出来ないと思う。

レースの世界にはその「分岐点」が毎年あります。

ナショナル・チャンピョン・ジャージ

ライダーの称号をジャージで表す、という自転車世界の特殊な事情の為、他のスポーツに比べて、よりチャンピョンの称号は重いように感じます。


ライダーの方達は、口々に、

「絶対に取らねばならないタイトル」

と呟きます。

そのジャージの重さは、傍観者とも言える我々ファンは、頭では理解していると思っている。

「夢」や「血の重み」等、

様々な美しい言葉でラップする事は可能です。


だけど、僕が去年、初めて全日本選手権を見た時、
もっとも印象的だったのは、

「タイトルをつかめなかった選手達の表情」

でした。

完全に放心し、我を忘れ、その分岐点の瞬間を、瞳の先に再生しているような表情。


ナショナル・チャンピョンにかける選手達の思いは、言葉でで表現する事は不可能だと思います。

美しい言葉で飾るよりも、つきつめて、煮詰めて、たどり着いたその渇望は、「狂気」と表現してもいいのかもしれない。

全ての犠牲は、そのジャージに袖を通す瞬間の為。


獲得した瞬間、それは「失う恐怖」にかわるのかもしれません。


「絶え無き渇望」

言葉にするとそれが一番近いかもしれない。
でも、やはり言葉では難しい。

ひとつ言える事は、妥協なく全てを捨てて、単一の目的に挑む人間の表情は、本当に美しいという事だけです。



If You Love Somebody, SET THEM FREE.

YUSUKE HATANAKA :  Grave

If You Love Somebody, SET THEM FREE.
If You Love Somebody, SET THEM FREE.