2011年8月17日水曜日

My Favorite Things

きっかけは覚えていないが、John Coltraneのアルバム、”My Favorite Things”を最初に聞いた時の印象は鮮烈に覚えている。

学生の時、映画”Round Midnight”を祇園で見て、その中に出てきた老人のジャズミュージシャンのセリフがとても印象的で、ジャズのレコードを買いだした。


「毎日なにかを創る行為は、墓場へ一歩一歩足を踏み込んでいくようなものだ。」



当時、CDは普及し始めていたが、安価に入手できるのは、Tower Recordや中古ショップで購入できるレコード(ビニール)だった。


言わずと知れたミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の一曲。

雷を怖がる子供たちに、マリア先生が「楽しい事を考えて」と励ますシーンの曲だ。

原作は二拍子の軽快な曲としての印象。

だが、レコードプレイヤーに針を落として最初に流れる4ビートのうねるようなピアノのイントロと、コルトレーンの地を這うようなソプラノサックスは、原曲とはまったく別の印象だった。

その時の印象をなんと表現したらいいかわからない。
凡庸な表現だけど、頭をハンマーで殴られた感じとしか言いようがない。


部屋で繰り返し繰り返し聞いていた。

訪ねてきた友人が、昼間から暗い部屋の中で、変な音楽を大音量で聞いている僕を見て、

「あいつはドラッグ中毒だ」

と噂を広めたぐらいにw


何回も聞いていると、実は最初の印象より、それほど原曲とかけ離れた解釈ではないとわかった。

原曲も始まりは短調(マイナー)で始まる。
子供に語りかける歌というには、クールで突き放した曲だ。

いつの間にか長調(メイジャー)に転調するが、クラシックのようにドラマチックな変化ではなく、とても自然で、そして、劇的ではなく、突き放したように終わる。


ジャズの世界のスタンダードナンバーだけど、コルトレーン以外にカヴァーされたFavorite Thingsはまったく印象がない。
カヴァー作品の代表曲と言ってもいい。

CMでは京都の高桐院の紅葉のCMで、コルトレーンの曲が使われた。
映画では、ビョークの”Dancer in the Dark”で彼女によりカヴァーされた。

名曲ではあるが、どこか儚く悲しいシチュエーションで使われる事が多い曲だ。


最初に僕が感じた印象。

「とても美しく、そして恐ろしい」

というのは、世間のスタンダードな評価なのかもしれない。







実は、この曲は、生まれてはじめて、人の評価ではなく、自分自身が評価した曲だ。

それまでは、音楽でも、映画でも、絵画でも、人の評価に乗った事しかなかった。

両親の評価であったり、友人であったり、彼女であったり、雑誌の評価であったり。

自分が信頼している人や媒体が評価している=良いもの

という評価を二十歳ぐらいまでずっとしていた。


事実、この曲をきかせた彼女の評価は芳しいものではなく、録音テープを貸した 友人も首を振りながら返却してきた。

それまでの僕だったら、たぶん、周りの評価に動かされて、聞くことをやめたと思う。

でも、最初にレコード特有のノイズの中から、JBLのスピーカーを通して出現したイントロの印象はとても鮮烈で、評価を覆すどころか、20年以上経過した今でも、もっとも好きなアルバムの1枚だ。




「教養がないから芸術や文学なんて分からない」

という人もいる。

「教養」ってなんだろう?と思う。

作品に対する権威の評価?あるいは作品の歴史的立ち位置?

そういう「知識」を教養というのなら、

「知識」を超え、無教養な僕の「感性」を揺さぶらない「芸術」

は、僕には無価値だ。

知識は「解釈を拡張する」役目を持つが、解釈が立脚するのは「感性」だ。
感性を刺激しない解釈は、歴史を年数の丸暗記で理解するのと同じ。

1945年の出来事は覚えても、出来事に関する文脈(コンテクスト)は理解できない。



「自分で自発的に、なにかを美しいと思う事ができる」

というのは、よく考えてみれば、すごく幸せな事だ。
もちろん独善的だったりする事はたくさんあるし、時間の経過で印象が変わる事もある。

でも、100のうち1つでも、長い年月の間、変わらずに「美しい」と思えるものが選択できるなら、それは、心のそこのコアな価値観に変化がないという事なんだと思う。

それが宗教だったり、仕事だったり、音楽だったり、いろいろなんだろうけど。

それはあなたにも、いつか見つかる。










2011年8月15日月曜日

Stress

「ストレス」はネガティブなイメージで語られる事が多い。


特に仕事上のストレスだと、体を壊したりのマイナスイメージがつきまとう。


小さいメモパッドを一日持ち歩いて、ちょっとでもイラっとした事を感じたら、書きだしてみると面白い。


我々がいかにストレスフルな世界でサバイバルをしているか分かるから。




日本人は美徳とされる謙虚さで、それを飲み込む事が多い。
外界からのストレスにさらされても、それは自分がアウトプットしなければ日常は変化なく平和だ。


その行為に「我慢」という称号を与え賞賛するのは、美しいけれど、残酷な文化だ。






エンジニアにとっての仕事上でのストレスとは、ほぼ例外なく


・合理性の欠如


だと思う。


昔、同僚が、同じ職業に携わる人間の気質を見事に例えた。




「楽をする為なら、喜んで徹夜するね。」




彼が言いたかったのは、毎日のムダな1時間の残業を生む温床になっている繰り返しの処理、無駄なビルドの待ち時間をなくす為なら、喜んでそれを自動化するタスクを書き、ビルドを効率化するためにコードを最適化する、という事だ。


結局、ストレスの本質は




<私はこうしたい(あるいはこうありたい)>




という理想を、外因から規制される事によって生じる摩擦だ。




日本人は、それを心の中にしまいつつ、なんとなくお酒の席とかで口に出して、それでバランスを取る人が多い。


状況によっては、自分の感じたストレスが検討違いだったり、自分に要因がある場合もあるだろう。


だけど、それは洗い出してみないと原因がわからない。








週末に行うルーティーンのタスクで、その週をふりかえる事をしている。


記述はすごくカンタン。




・楽しい事
・悩ましい事
・イライラする事
・増やす
・そのまま
・減らす


この項目について、自分の所見を書いていくだけ。


これは、あるAgile開発の本で、チームミーティングで行う内容として例示してあって、そのシンプルな分析手法をすごく気にいって取り入れた。


(通常、Agile開発の本って、どうしても自己啓発っぽくなって嫌いなんだけどw。でも、おいしいところだけをつまみ食いする価値はあると思う)


上の3つが事象で、下の3つが対策だ。


実際にやってみて感じたポイントは


「自分の正直な気持ちを、飾らずに書くこと」


これは自分が悪いから、とか、自分の実力が足りないから、とか最初から判断してしまうと、ストレスの本質がわからないままだ。


とりあえず、書きだして眺めると、それだけで不思議と感じていたストレスが軽減されるのが面白い。


これは超自然的な現象ではなくて、頭の中にあった漠然とした違和感を、自分の頭から切り離して、紙(あるいは電子データ)という媒体の上に置き換えたからだと思う。


頭の中にあった漠然としたストレスに対して、自分は今まで渦中の当事者だった。
それを言葉に置き換えて頭から切り離す事で、ストレスを客観視している状態になるんだと思う。(溺れた自分のビデオを見てるように)




言葉にするといろんな事が分かる。







<イライラする事>


・撮影の時にホテルで眠りにつくまでの時間が長い


↓なぜ?


・カメラのバッテリーは全部で4つ。それに対して、新型のチャージャーは2つ。つまり、一度フル充電してから交換する必要があり、他の仕事をしながらチャージを待っていると、完了を気にしなければならずない。
しかも、疲れているときには、最悪の場合、1回のチャージで寝てしまう。


↓なぜストレス?


撮影当日にバッテリーがチャージできていないのが最悪だが、チャージを気にして仕事をしながら待っているのもストレス。


↓つまり


漠然とした気にかかる事を頭に入れて仕事をしている事はストレスフルな状態




↓対策として


<増やすもの>


・バッテリーチャージャーを2つ追加し、合計4つにする。


↓なぜ?


チャージを開始すれば、寝てしまっても充電は完了する。
チャージさえはじめてしまえば、バッテリーの事は忘れる事ができる。




ストレスの内容によっては、対策がもっと複雑になるものもあり、なにかを買って終わり、とはならない事もある。




でも重要なのは、ストレスの内容を客観視する事だ。
僕の経験上、仕事のストレス比重の大きなものは、些細な仕事のフローの非合理性だし、ささいなフローを改善するのに要するコストは、大抵コスト計算の必要もないぐらい低い。
(例えば、複数の場所で仕事をする必要がある場合、その先々で、常に同じ文房具とメモ帳が揃っている事でとても快適になる事もある)


仕事上の遠大な目標のプランニングや、人類誕生の秘密に対する考察も重要な事だが、大きなスコープで考える前に、日常の些細なストレスを削るのはとても大事な事だと思う。


ゲルニカのような素晴らしい壁画を構想しているのに、スケッチブックがB5サイズしかないようなものだ。




不要なものはどんどん捨てましょう、という運動が流行っていると聞いたけど、僕は小さいストレスはどんどん捨てる、というのがいいと思う。








参考:


ふりかえりに関して
「アート・オブ・アジャイル・デベロップメント」
(オライリー・ジャパン)


記憶せねば、というストレスに関して
デビット・アレンのGDT(Get the Things Done)に関する書籍全般。









2011年8月14日日曜日

Not Love, But AFFECTION.


<フロイト>

“---------------- 誰かの顔が寝ても覚めても頭を離れなかった経験は?”

<ジェームス>

“ある”


<フロイト>

“相手は?”

<ジェームス>

イライザ
マリア
イライ
ハーブ
レイランダー
ボアズ
カーター
アンジェラ
ティナ
シド
サロニー
ローズ・・・・・・・・・・・・・・


<フロイト>

“・・・・・・・・・・・なに考えてんた おまえ?
アンジェラは下宿人
ディナはガキ
生みの親に
育ての親に犬に
あとは全部男じゃねえか”



<ジェームズ>

“シドは女だぞ”


<フロイト>

“何者だ?”


<ジェームス>

“アンディとアンジェラの元担任だ”


<フロイト>

“--------------おまえは手近なもんならなんでもいいのか?”
“そりぁ愛着といってな、いつも使っている歯ブラシを気に入るのと似たりよったりのシロモノだ”


<ジェームス>

“歯ブラシを失くしたらあんたは泣くか?”



<フロイト>

“-----------------いや  だが職を失ったり株が暴落しても悲しむ奴ぁ大勢いるぜ “



<ジェームス>

“見慣れた空や親しんだ大地を失っても悲しむ者は大勢いるだろう”


<フロイト>

“------------------------“







from 「愛でなくⅡ-Not Love, But AFFECTION.」 伸たまき










NOT LOVE BUT AFFECTION

2011年8月11日木曜日

愛するものを殺せ


iPhoneのアプリケーションデザインの本を読んでいたら、デザインをする時の指針として、こんな言葉が使われていた。



「愛するものを殺せ」



刺激的なタイトルにびっくりするが、文筆家の好む金言だそうだ。

「いつになく見事な文章を書いてしまいそうな衝動を覚えたときは、いつでもそれに従え。全身全霊を傾けて。
そして、原稿を出版社に送る前に捨ててしまえ。」

-アーサーキラークーチ


新しい試みについてプレストを行うとき、多くのエンジニアは既存の技術の延長線と応用で考える。
オープンソースとクラウドサービスの時代において、不特定多数のエンドユーザーを対象にしたサービスは、既存のフレームワークとサービスの組み合わせになるので、ある意味それは正しい。


極めてプライっベートな用途に使うスマートフォンのアプリケーションについて、非技術系の人間の要望はとても面白い。

欲望に飾りがないからだ。

技術畑の人間は、それを聞くと鼻で笑う事が多い。
そして、

夢より現実を見た方がいい、というように。


僕もそういう見方をする事が多かった。

単なるiPhoneアプリケーションといっても、iOSのAPIレイヤーから、バックエンドのWebプロセスに至るまで、その外見の裏側では、膨大な実証技術の蓄積に成り立っている。

エンジニアは、その膨大な暗黙知の上に考える癖がついているので、その前提を飛ばして議論が飛躍する事を好まない。

でも、既存の技術と常識の蓄積だけでは、本当にインパクトのあるブレイクスルーが生まれにくいのも確かだ。

なぜなら、現状から逆算した未来だと、既存の技術が想定しているパラメータの組み合わせの範囲内になり、すぐに競争の中で淘汰されやすい。


初代iPhoneの発表時、事前の報道では

「iPod機能のついた携帯電話をAppleが開発中」

というものだった。

今になってみるととても可笑しい話だけど、スマートフォン(あるいはPDAフォン)という概念で予想していたメディアはなかったように思う。

当時、iPodは破竹の勢いで、ユーザーとしてみても、ケータイにiPod機能がつくのは魅力的だった。

考えてみれば、Appleがケータイを出すのにそんな単純な回答を用意するわけはないのだけど。

発表の夜、ニュースサイトで最初にiPhoneの外観を見たとき、正直僕は不安になった。

それは全面タッチスクリーンのケータイで、それまでの記憶では、いくつかそういう端末は登場していたが、成功例はなかったからだ。
(スマートフォンは存在したが、当時の主流は今では少数派のキーボード付きタイプだった)

しかし、ジョブスによるiPhoneのデモは衝撃的だった。

一番の驚きは、Mapのデモだ。

Mapでサンフランシスコを表示し、スターバックスを検索。
画面内のスターバックスの場所に赤いフラッグが表示される。
そして、一つのフラッグをタップすると、その店舗の電話番号、住所情報が表示される。

驚いたのは、そこに表示された電場番号をタップして、直接スターバックスに電話をかけたことだ。


「会場の皆さんにラテのトールを。」


この時の衝撃は、今スマートフォンを使っている人には理解出来ないかもしれない。
その当時のスマートフォンの主流の機能は

電話+PDA(いわゆる電子的な手帳)

だった。

スケジュール、カレンダー、連絡帳という基本機能は今のスマートフォンと同じ。
だけど、あくまで主機能は「電話」であり、PDA機能は副次的機能だった。(連携するアプリは連絡帳ぐらいだったと思う)

Mapのデモを見てもわかるように、iPhoneの場合は、電話すら機能モジュールの一つであり、アプリケーションが「電話機能」として呼び出す事もあるのだ。

iPhoneはケータイ「電話」ではなく、ケータイ「コミュニケーションツール」として設計されている事がとてもよく分かるデモだった。



レガシーケータイ(いわゆるガラケー)は、とても操作と設定が複雑だった。
素晴らしく高機能ではあったのだけど、複雑なキーバインドが必要だったり、目的の機能をONにする設定がとても深かったりした。

目的は単なる写真の移動なのに、そこに至るパスが険しすぎた。

それは文筆家の「見事な文章」だったのかもしれない。


iPhoneの場合、実装基準は機能ではなく、
「ユーザーのやりたいこと」
だったように見える。


ユーザーがiPhoneでやりたい事を明確に決め、目的に至るパスを最短にする。


そして、ユーザーのやりたい事ではない、あるいは優先順位が低いと目された内容は、たとえ「コピー&ペースト」ですら、初期のヴァージョンから切り捨てる。

逆に、タッチスクリーン操作に実際に触っているかのような感覚を付与するため、UIデザインには過剰ともいうべきこだわりがある。

iPhoneの曲目リストや住所録は、ローロデックスのように、ユーザーが指でめくるとスクロールし、しかも最初は早く、次第に、まるで本物のローロデックスの回転が抵抗でゆっくりになるかのうように、回転が遅くなる。
しかも、最後のリストになると、回転停止のショックで、若干リストが上に跳ね返るぐらいの凝り方だ。

一見無駄な工数をかけて、自己満足しているだけに見える。

だけど、前述のスクロールの物理法則運動は、おそらく、使っている人の多くは気がついていない。

それは実装が無駄だったからではない。

気がつかないほど自然だからだ。
細部のこだわりによって、実際に物理的媒体に触っている感覚になっているからだ。


おそらく、開発プロジェクトの途中で、実装目前に捨てられた機能は膨大な数に登るだろう。

それをあえて捨てる事ができるのも、設計目的がブレてないからだ。


目的のない「シンプルさ」は逆に「装飾」だ。


写真もそうだと思う。

目的がなければ、

ハイキー=優しい
ローキー=荘厳

というパターンをなぞるだけだ。

行き場のないパターンは過剰になり、目的を失ってさまよい、そして淀んでしまう。

シンプルさは自然体からは生まれないと思う。

膨大な挑戦と実験と失敗から生まれるのだ。













2011-01-28 13-10-28