きっかけは覚えていないが、John Coltraneのアルバム、”My Favorite Things”を最初に聞いた時の印象は鮮烈に覚えている。
学生の時、映画”Round Midnight”を祇園で見て、その中に出てきた老人のジャズミュージシャンのセリフがとても印象的で、ジャズのレコードを買いだした。
「毎日なにかを創る行為は、墓場へ一歩一歩足を踏み込んでいくようなものだ。」
当時、CDは普及し始めていたが、安価に入手できるのは、Tower Recordや中古ショップで購入できるレコード(ビニール)だった。
言わずと知れたミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の一曲。
雷を怖がる子供たちに、マリア先生が「楽しい事を考えて」と励ますシーンの曲だ。
原作は二拍子の軽快な曲としての印象。
だが、レコードプレイヤーに針を落として最初に流れる4ビートのうねるようなピアノのイントロと、コルトレーンの地を這うようなソプラノサックスは、原曲とはまったく別の印象だった。
その時の印象をなんと表現したらいいかわからない。
凡庸な表現だけど、頭をハンマーで殴られた感じとしか言いようがない。
部屋で繰り返し繰り返し聞いていた。
訪ねてきた友人が、昼間から暗い部屋の中で、変な音楽を大音量で聞いている僕を見て、
「あいつはドラッグ中毒だ」
と噂を広めたぐらいにw
何回も聞いていると、実は最初の印象より、それほど原曲とかけ離れた解釈ではないとわかった。
原曲も始まりは短調(マイナー)で始まる。
子供に語りかける歌というには、クールで突き放した曲だ。
いつの間にか長調(メイジャー)に転調するが、クラシックのようにドラマチックな変化ではなく、とても自然で、そして、劇的ではなく、突き放したように終わる。
ジャズの世界のスタンダードナンバーだけど、コルトレーン以外にカヴァーされたFavorite Thingsはまったく印象がない。
カヴァー作品の代表曲と言ってもいい。
CMでは京都の高桐院の紅葉のCMで、コルトレーンの曲が使われた。
映画では、ビョークの”Dancer in the Dark”で彼女によりカヴァーされた。
名曲ではあるが、どこか儚く悲しいシチュエーションで使われる事が多い曲だ。
最初に僕が感じた印象。
「とても美しく、そして恐ろしい」
というのは、世間のスタンダードな評価なのかもしれない。
実は、この曲は、生まれてはじめて、人の評価ではなく、自分自身が評価した曲だ。
それまでは、音楽でも、映画でも、絵画でも、人の評価に乗った事しかなかった。
両親の評価であったり、友人であったり、彼女であったり、雑誌の評価であったり。
自分が信頼している人や媒体が評価している=良いもの
という評価を二十歳ぐらいまでずっとしていた。
事実、この曲をきかせた彼女の評価は芳しいものではなく、録音テープを貸した 友人も首を振りながら返却してきた。
それまでの僕だったら、たぶん、周りの評価に動かされて、聞くことをやめたと思う。
でも、最初にレコード特有のノイズの中から、JBLのスピーカーを通して出現したイントロの印象はとても鮮烈で、評価を覆すどころか、20年以上経過した今でも、もっとも好きなアルバムの1枚だ。
「教養がないから芸術や文学なんて分からない」
という人もいる。
「教養」ってなんだろう?と思う。
作品に対する権威の評価?あるいは作品の歴史的立ち位置?
そういう「知識」を教養というのなら、
「知識」を超え、無教養な僕の「感性」を揺さぶらない「芸術」
は、僕には無価値だ。
知識は「解釈を拡張する」役目を持つが、解釈が立脚するのは「感性」だ。
感性を刺激しない解釈は、歴史を年数の丸暗記で理解するのと同じ。
1945年の出来事は覚えても、出来事に関する文脈(コンテクスト)は理解できない。
「自分で自発的に、なにかを美しいと思う事ができる」
というのは、よく考えてみれば、すごく幸せな事だ。
もちろん独善的だったりする事はたくさんあるし、時間の経過で印象が変わる事もある。
でも、100のうち1つでも、長い年月の間、変わらずに「美しい」と思えるものが選択できるなら、それは、心のそこのコアな価値観に変化がないという事なんだと思う。
それが宗教だったり、仕事だったり、音楽だったり、いろいろなんだろうけど。
それはあなたにも、いつか見つかる。