2011年10月30日日曜日

1/1000秒の人生


June 26, 2011 at 8.10am

「間もなく自転車レースの集団が通過します。沿道の皆様の応援をよろしくお願いします。」

「先導車」と僕が呼んでいる先触れのオフィシャルカーのアナウンスが、のどかな田園内の一本道の先から聞こえてくる。

この場所に到着したのは、7:20am
到着後に機材の動作チェック、光量のチェック、待機しているコーナーの状況を確認しているので、直前は特にする事もない。

6月下旬の八幡平は、朝の気温が18度と肌寒いぐらいだ。
天気が懸念されていたけど、雲の流れは速く薄い。天候は持ちそうに思える。

先導車の通過にあわせて、iPhoneのラップタイマーをスタートさせる。
別にタイムを記録しているわけではないんだけど、ラップ数を記録していないと、周回コース、かつ男女混走の状態では、先頭の場所も分からなくなる。

先導車で記録をつけるのは、必ずプロトンの先頭に来る事、アナウンスで判断が容易な事、そして、プロトンの接近時にはファインダーを見ているので、計測できないからだ。


周辺を見回すと、観客は20人程度。オフィシャルとチームのサポートスタッフを除けば、純粋な観客は4人ぐらい。
全日本選手権の観客動員は、他の国内レースからすると多いとはいえ、JapanCupの密集した熱狂とは比べ物にならないぐらい少ない。
そして、多くの人は、スタート地点にいるので、最後の上りに入るこの直角コーナーには、なおのこと人がいない。

田園の中の一本道から逃げる3名が見える。3名だとこの距離では無音。野鳥のなく声と、木の葉が風にゆらぐ音だけが聞こえて、シュールな光景にも見える。

そして、その30秒ほど後方からプロトン。
こちらはさすがに人数が多いので、遠距離でもチェーンとホイールからの独特のサウンドが、遠雷のように静かに聞こえてくる。


シャ、シャー、シャー、シャー、シャ、シャー

撮影位置に選んだのは、右に90度曲がるコーナーのイン側のポールから、1m程度後方のガードレール内側。
カットインして最後の上りに立ち上がる選手の表情を下から捉える予定。


シャ、ジャャー、シャー、ジャャー、シャ、ジャャャャャー


このコーナーイン側には、様々な看板と標識があり、ライダーのロック地点から、フレームアウトするまでの時間は0.5秒程度だと思う。

だから、重要なのは、「状況にあわせて撮る」事ではない。
誰を撮影するかを道路横からの望遠で決めた後に、すぐポジションに付き、もしそのライダーが被ったり、アウトにラインを変えたら、そのラップを捨てるぐらいの意識でいいはず。
2秒あれば状況に合わせる事も可能だが、0.5秒では目的以外は全て捨てる必要がある。

その時の目的は別府史之選手だった。
写真を始めたきっかけが彼でもあり、彼のシリアスなレースを見る初めての機会でもあったからだ。

ピーナツぐらいの大きさだった逃げの3人が、ナゲットサイズになった時にファインダーで露光を確認する。

逆光気味になるので、暗めの草地で測光した結果、ファインダーに表示された数値は

ss 1/1000
F14
ISO2400

1/1000のシャッター速度の時に、F10前後になるようにISOを調整するのが経験からのセオリーなので、現在の光源だとISOが高い。1600にダイヤルで調整する。




June 26, 2011 at 8.16am JST


ファインダーのセンターのフリップにライダーを二度三度テストロックして追随を確認する。

大きさはいよいよホットドッグ。


ジャァ!ジュジュジュ!ガチャ!ジュジュジュ!



このような見晴らしの良い直線では、プロライダーの走りでも、前方から見ていると、スピード感はあまり 感じられない。

ただ、自転車レースは被写体との距離がとても近いので、10メートル手前からのスピード感はモータースポーツを上回る。それは、前方から狙うよりも、横を通過するライダーを高速にパンしながら追う僕のスタイルからかもしれない。

前方5メートル。看板に遮られる直前。別府選手は2番目の位置。

そして、看板に入り、そこからパンドラの箱の魔物のように選手が飛び出す。


ジャァ!ジュジュジュ!ガチャ!ジャーーーーーーーーーー

最初にロックする瞬間、この瞬間は、一番アドレナリンが放出される瞬間。
0.5秒なんてレンジは日常生活で意識する事はない。
でも、ファインダーでロックする瞬間、なにかのスイッチが入り、0,5秒は1分程度に引き伸ばされ、ライダーの動きはスローモーションのように感じる。


【GHOST WHISPER】JAPAN ROAD RACE CHAMPIONSHIP 2011 IN IWATE 25 【GHOST WHISPER】JAPAN ROAD RACE CHAMPIONSHIP 2011 IN IWATE 26 【GHOST WHISPER】JAPAN ROAD RACE CHAMPIONSHIP 2011 IN IWATE 27 【GHOST WHISPER】JAPAN ROAD RACE CHAMPIONSHIP 2011 IN IWATE 28



逃げているライダーは視線はあまり移動しない。

ただ、その動かない視線の、さらに微妙な動きをトレースしているとき、自分が走っているわけでもないのに、ライダーの鼓動と同期したような不思議な感覚になる。


逃げは0.5秒で視界から消え、そしてプロトンが迫る。
とりあえずファインダーで流して撮るが、そのショットが納得の行くものでない事はわかっている。
狙いがないからだ。

今の逃げとプロトンのタイムギャップから、プロトンで新たに狙いを決めるのは難しく、確認出来るギャップが開くまで、逃げだけを狙う事に決める。


プレビューで全体の露出確認だけを行い、次に接近する女子の先頭に備える。

ここから6時間近い長いレースが始まる。

ウェストバッグから、エナジーバーを取り出し、立ったまま無言でかじる。










たぶん、レースの写真を撮影していた理由の一つは、この1秒以下の邂逅がとても刺激的だからだと思う。
八幡平まで来るのに、6時間新幹線に乗り、そこから1時間車を運転し、ケータイの電波すら入らないロッジで二晩すごし、6時間田園の真ん中の看板の裏に立ち続け、それでも撮影で集中している瞬間は、トータルでも2分ないぐらいだ。

経済性で考えたら、これほど割に合わないものもないだろう。

でも、膨大な準備、調整、鍛錬が、わずか1秒以下の時間軸に凝縮されるような刺激的な体験は、普通に生活していたらなかなか得られない。


その背筋がゾクゾクする感覚は、今まで人と共有した事がなかった。

最後に言葉に残したくてトライしたが、その気持ちが、あなたに伝わるかどうか僕は自信がない。


単なる「道楽」といえばそれまでだけど、僕にとって「道楽」とは、享楽的な楽しみではなかった。

与えられた遊びではなく、そこには確かに自分にしか見えない世界があって、自分でないとその瞬間は味わえなかった。

そこに立ち続けるのはとても苦しく、精神も磨り減るものだけど、その「瞬間」を感じられたのはとても幸せだったと思う。


ある人は言った。


「苦しくても続けているのなら、それは好きという事なんじゃないかな?」


今の僕はこう思う。


「楽しい(fun)でも、興味深い(interest)でもなく、それでも人はなにかに熱病に冒されたように邁進する事がある。」

それは「自分が生きている事」のモデル化。
人生を1秒以下に凝縮する事で、生きている意味を確認する行為。






この気持ちを、一昨日他界した古い友人に捧げます。




2011年10月16日日曜日

自由


手紙でもいいし、プログラムコードでもいい。
写真でもいいし、音楽でもいいし、宗教絵画でも漫画でもいい。

何かを作っている時、あなたは自分の自由を感じるだろうか?


日本の小学校で、最初にまとまった文章を書く経験は、おそらく作文の授業だ。

子供の時、家にあった児童文学(ヴェルヌとかHGウェルズとか)がとても好きで、何度も読み返していたので、作文の授業はとても興味があった。

あのワクワクするような物語を作る方法を教わると思ってた僕は、先生の言葉に衝撃を受けた。



「思った事を好きなように自由に書きなさい。」





例えば絵だったら、

子供は必ずなんらかの方法で絵を描く。
技術云々以前に、画用紙にでも机にでも、クレヨンや、マジックで絵を描く。

これは視覚表現である絵の特権かもしれない。
どのようなレベルであれ、目の前に提示されたらそれは「表現」として鑑賞可能だ。

ただ、文章は違う。


読み手は、文字コードの配置から、書き手が提示しようとしている情景を組み立てる必要がある。

つまりコードの実体化だ。


実体化されて初めて文章は鑑賞対象となる。
だから、なによりも、実体化させる時のストレスをなくさないといけない。

基礎技術がとても大事な分野なのだ。
絵画ではなく、表現としては音楽に近い。(ただ、音楽よりは、技術の敷居は低い)

文法、語彙はもちろんだけど、文章の基礎技術で大事なのは膨大な型の蓄積だと思う。
剣術に型があるのは、多種多様な実戦での状況の中、型に適合する状況に体を自動反射させ、迅速に対処するためだ。


型は「型にはめる」という使われ方もするし、創作とは相容れない言葉にも思える。

だけど、文章の世界で創造性(作家性)を発揮するためには、膨大で単純な型の、気の遠くなるような蓄積が必要で、文学的才能を例えるなら、


“巨大な地層を膨大な年月をかけて浸透し、最後に洞窟の岩肌から滲み出る純水”



だと思う。(もちろん僕は文筆家ではないので、客観的な観察による印象だけど。)

だから、なにもない子供に対して、

「自由にしてよい」

と告げる事は、恐ろしく不自由を強いる事になる。



猿人が手にした水牛の骨が、敵対する相手を殺す武器になり、そしていつしか木星探査をする宇宙船になる。

骨(ツール)がなければ、猿人は絶滅していくだけだった。
ツールを手にして、初めて進化し、そして自己を表現できるようになった。


こう考えると、既得権益としての自由はないんだ。

いや、既得権益ではない。

デフォルトの状態での「自由」が存在しないという事だ。



型を積み重ねて行く過程で、作家の能力の分岐点は必ず現れる。

型をトレースする事自体が目的となり、型の内側を衛星のように周回するか、
あるいは、散在する型と型を組み合わせ、初めて自分で「型」を作る創造を行うか。






僕のような世代は、思いついたアイディアには、大概、アニメなり特撮なりの元ネタがある。
今の時代には、完全なオリジナルなんかないんだ。
全てはリメイクでリミックスなんだ。

庵野 秀明

2011年10月7日金曜日

芸術家の死



本当の芸術家は食うために何かを作らない。
作るために食って生きるのだ。   

小説/蜘蛛の紋様1







芸術家という呼び名は、日本ではあまり良いイメージがない。

・芸術家気取り
・中二病

たいていは

「本道からドロップアウトした残念な人」

という意味で使われることが多い。

Artという言葉は、芸術という意味の他に「人文科学」という意味も持つ。
日本で言う「文系/理系」は “Art/Science”。

僕のイメージでは、

サイエンス(科学)
=物事の成り立ちと構造を追求する
アート=(人文科学/芸術)
=サイエンスが提示する構造に、文脈(コンテキスト)の肉付けを与える。


つまり、KYOKOが見た情報を記憶するプロセスを解き明かすのがサイエンスだが、
KYOKOの記憶により彼女が追憶を感じる事を、他者に共感させるのがアートだ。






スティーブ・ジョブズは、その起業時から晩年まで一貫して

「目的は、いろんな制約の垣根を外し、情報によって人を開放する事」

と言っている。

Appleへの復帰後、若干神格視されてきた彼だけど、これは変わらない彼の姿勢だと思う。

経営者としての彼を評価するとき、メディアは

「今世紀最大の経営者の一人だが、そのカリスマ性のあまり後継者が育ちにくく、企業永続性の基礎を築けたかは疑問」

と評価する事が多い。



訃報を聞いて、

「彼はずっと「経営者」という感覚ではいなかったのかもしれない」

と感じた。

彼にとって、「情報による人の開放」というヴィジョンが全てであり、Appleの事業自体は、その為の道具でしかなかったんだ。


そういう意味では、彼は生粋の「芸術家」だと言える。

芸術家に「清貧」と「純真」を求める人も多いが、「作品(ヴィジョン)」の為に、自分の全存在も環境も利用するのが芸術家で、ベクトルの違う博徒や実業家とも言える。

「作品(ヴィジョン)」の為には多額の資金と力が必要で、その為には呵責なく勝つ必要があるのだ。

なので、通常のビジネスのルールが、彼には適用されず、一度は失敗し、環境から放逐され、そして戻って全てを書き換えた。

強いビジョンを持つ作家や経営者は、作品の流れが舞台的な流れを持つので、わかりやすくドラマチックだ。

AppleがAppleであるから、
シリコンヴァレーはビジネスの主戦場というより、まるで昼メロやオペラの愛憎劇のように下世話な面白さがある。

ジョブスの強烈なヴィジョンに翻弄され、かき回され、反発し、迎合し、

かつて、F1が絶大の人気を誇った時代、そして、今のロードレースの人気のように、「人の営みの、生き生きとした面白さ」があるのだ。

Appleが人に夢を与えのは、そのビジョンが共感される、というのももちろんだけど、ブラックホールと超新星をあわせもったような強烈な重力とエネルギーが、

「なにか変わるかもしれない。」

と人に思わせるからだ。

閉塞感にまみれた苦痛な日常よりは、とりあえず無理矢理にでもサイコロをふって、壊してくれる暴君が快感なんだと思う。

エヴァンゲリオンの最初の映画が公開されようとしていた90年代後半、ニューズグループの書き込みがとても印象的だった。

「オレは絶対エヴァなんて認めない。なぜから……」

という書き出しで、彼は膨大な量の「認めない理由」を書き出していた。
なんと強い作品への愛だろう。

愛され、庇護される事を選ぶ芸術家もいるだろう。

だけど、中立がおらず、信者もアンチも巻き込んで巨大なエネルギーの奔流に変えて目的へ登っていくのが、僕は「本当の芸術家」だと思う。


彼は死ぬときも劇的だった。
ジム・モリソンやジョン・レノンのように。

ちょっとズルイなと思いつつ、天使も悪魔も巻き込んで、今後も天国でヴィジョンを目指して欲しいと思います。

やんちゃが過ぎて天国から追放されたら、再び”one more thing”を聞かせてください。