2011年1月30日日曜日

2011年1月29日土曜日

a Flowery Talent of THE 8

畑中勇介選手を始めて意識して見たのは、2009年全日本シクロクロス(12月)でした。

実際に始めて姿を見たのは2009年10月のJapan Cupで、記憶ではその時、山岳賞を獲得されています。

Japan Cupの時は、畑中選手をかなりの数撮影したのですが、その個性的な雰囲気と、攻撃的な走り以外は、失礼ながら、それほど印象に残っていませんでした。
(もっとも、その時期、日本で走られている選手をほとんど知らなかったという事もあります。)


全日本シクロで走る畑中選手は、すごく僕の目を惹きました。


YUSUKE HATANAKA :ajitanto


成績自体はDNFでしたが、全身から発散される「楽しい」という気持ちがとても印象的でした。


担ぎ上げのセクションで、多くの観客から、「オレ8!」と声援やヤジ(?)を受け、破顔する。

YUSUKE HATANAKA :cantabile



レースが終わった時に、当時、まったく選手と会話したことがなかった僕が、意を決して、「お疲れ様でした!」とファインダー越しに声をかけると、「ありがとうっす!」と破顔する。


YUSUKE HATANAKA :cantabile


成績から見たら散々だったはずですし、レース中に笑顔を見せるなんてロードではない事でしょう。

でも、見ていると、冷やかしとかで出ているのではない事が分かります。




楽しい」という気持ちを指でなぞり、その気持ちをかみしめながら走るような感じです。





以前書いた福本千佳選手の「楽しい」、という生来のオーラとはまた違う。

最近になって、その年の畑中選手の状態がとても良くなかったと聞きました。

今、思うと、それは

「もう一度原点に戻って、自転車の楽しさをなぞって思い出す」

という気持ちだったのかもしれません。


好きな事が職業になるのは理想的だと多くの人は思います。


でも、職業になるからこそ、本来の「好き」という気持ちを忘れてしまいます。

趣味であれば、時間と場所と気分を選べますが、職業は単発の享楽ではなく、毎日のマラソンです。

連続して安定した状況を作り出さなければいけない為、状態の悪い時にも結果を出し、またある局面では、更に追い込みたいのに、自分のボーダーを下げなければいけません。


趣味の時にはなかった「制約」に縛られるんですね。

いつしか、その「楽しい気持ち」を忘れてしまう。

もちろん、心の中心で「好き」だから、競技を続けるんでしょうけど、でも、表面的には、その気持ちを見失ってしまう事が多いです。


でも、面白いと思うのは、多くの場合、好き勝手にする趣味より、様々な制約のある「職業」という足かせは、同じ分野でも自分をさらに高いレベルに上げてくれます。

制約があるからこそ、自分の得意ではない、あるいは自分の状態が良好でない時に結果を出す為に工夫するんでしょう。






そして2010年。

初戦の熊谷クリテリウム。

畑中選手は優勝されました。

その時に運良く、シクロの写真を直接お渡しする事が出来ました。

「オレ、キタネー!でも嬉しいっす!」

とまた破顔される畑中選手。


表彰式を待つシートに腰掛けている畑中選手をファインダー越しに見て、とても印象が変わっているのに気がつきました。


YUSUKE HATANAKA : Adagio


たった3ヶ月前のシクロの時は、どちらかというと天真爛漫な少年的な表情だったのですが、その時は、自信に裏打ちされた大人の表情でした。

青年という表情でもなく、技術と経験を兼ね備えた大人の表情です。


そして4月の東日本GP。

ここでも優勝。

表彰式の後、インタビューを受けている表情はさらにシェープされ、見ていると、怖いぐらいの表情です。

2010年、畑中選手の表情は、レースを追う毎に研ぎ澄まされ、「強い表情」になっていくのが印象的でした。


YUSUKE HATANAKA : lebhaft


YUSUKE HATANAKA [Man In The Mirror]




畑中選手は「華」という才能を持っていると思います。

多くのファンは、彼を見るだけで気持ちが高揚し、応援したくなります。
その才能は、多くの場合天性のものですが、技術や自信や葛藤に裏打ちされて、自然に巨大化していく才能です。

例えば、才能のある喜劇役者は、その人が舞台に現れるだけで観衆が沸きますよね。

それは役者の知名度ばかりではなく、容姿が面白いのではなく、その役者が

「場を支配する力」

を持っているからです。
一般にオーラと言われるものですね。

ロードは駆け引きの競技なので、「場を支配する力」というのはとても重要なスキルだと思います。



YUSUKE HATANAKA :energico



今後、どのような選択をされるのか、とても興味がある選手です。

見ているだけで力をもらえる満面の笑みは、ずっとそのままなんでしょうね。




YUSUKE HATANAKA :Flash

2011年1月26日水曜日

Emotion, Instinct, and Intelligence

眠りつけない夜に、Stingの1985年の記録映画、”Bring on the Night - a Band is Born”を見ていました。

当時の最高峰のジャズミュージシャンが結集して作られた「ロック」バンド。
そのバンドによるアルバム、”The Dream of Blue Turtle”の制作と、そのライブを収録した映画です。音楽ドキュメンタリーの傑作の一つと言われています。


映画の冒頭で、参加ミュージシャンが、Sringについての印象をインタビューで答えているのですが、バックボーカルの女性「Ms.Dollette McDonald」が語った印象がとても興味深かったです。

「彼(Sring)の音楽は「本能」と「知性」の両方を刺激する。そんな音楽は珍しい。」


その言葉はとても印象的でした。

改めて辞書で引いてみると



ほん‐のう【本能
動物個体が、学習•条件反射や経験によらず、生得的にもつ行動様式。帰巣本能•防御本能•生殖本能など。


ち‐せい【知性】

物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。「―にあふれる話」「―豊かな人物」

比較•抽象•概念化•判断•推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力



つまり聞く人に対して複数のレイヤ

本能
        先天的特性
        制御不能
        認識不能の世界(感覚も認識も及ばない世界)

意識(認識、情緒)
        後天的特性
        ある程度制御可能
        認識された世界(感覚的所与を認識に昇華させた世界)

に働きかける音楽、という事です。

表現がメッセージとするなら、これは究極の表現です。

相手の本能、感覚、認識の全てに訴えかけるメッセージだからです。



この言葉を聞いたとき、僕が写真で目指したい世界も、

「本能」と「知性」に訴えるもの

なのだと直感的に思いました。




でも、その後、

「本能」と「知性」に訴える写真ってなんだろう?

と考えました。



いきなり知的でない表現を使うと、

「本能に訴える写真」

は、現代風に言うと

「萌え」

なのかもしれません。

説明不要、修飾不要、それだけで完結し、認識を超越して訴えかけてくるもの。




「知性に訴える写真」

知性が「感覚を認識に変換する能力」だとすると、

「写真からの事物の抽象的視覚情報から、具体的な意味情報を伝える事」

と言えるのかもしれません。

つまり、本能が言葉を超越して伝わる(グッと来ると一般に言われる感覚?)のに対して、知性は言葉で伝わる。

「写真を見て、様々な事を想像したり、連想したりする」

という表現を良く見ますが、まさにそれが知性に訴えている、と言えるのではないでしょうか?


振り返って自らの写真を見ると、本能に訴える部分はあると思うのですが、知性に訴える部分は弱いように思えます。


それは、自分の写真が、あまりにもシンプルで、主題が明確に一つだからです。

メッセージが強すぎて、想像の入り込む余地が少ないかもしれません。

それはアップがいけない、という事ではありません。

一見、周辺情報を欠落させていくような被写体へのアップでも、その視線や、アイウェアの反射や、口元の動きで、かなり想像の余地は広がるはずだと思っています。


では、もっとメッセージに対するフォーカスを弱くした方がいいのか?


でも、それをすると、自分が自分ではなくなるような気がします。
自分で写真を撮る意味がないと。


結局、2011年1月27日現在では、僕は本能に訴えかける表現に特化して、知性に訴えかける「何か」が足りないようです。

良し悪しではなく、これも僕の今の世界ですね。

その世界も、経験により、また変わっていくかもしれません。

でも、今の段階では、偏ってはいるものの、明確に自分の世界が、写真という表現の中で持てている事は、幸運な事だと思っています。


If You Love Somebody, SET THEM FREE.

2011年1月21日金曜日

Portrait of Women(st-2)

Previously on “Portrait of Women(st-1) (前回までの話)


昨年末、それまでのモノクロームだけの世界から、カラーに挑戦した時、ある女性のポートレイトを見た友人(女性)が言いました。


「この写真はあまり好きではありません。まるでお人形さんのように現実感がなく、遠い気がするんです。」



また、別の女性のポートレイトを見た、ある知人(女性)は言いました。


「あなたが撮影した写真を見ると、なんだか心の中を見透かされている気がするんです。なんというか、生々しく近い感じ」



これもとても対照的な意見です。


時々、写真を評して

「相手の内面に迫るようだ」

と言われる事があるのですが、とても光栄な意見だけど、それは違うと思っています。


僕はやはり撮影している相手の事は分からない。

理解したいと思うし、その努力はしているつもりです。

でも、例え戦績を暗記し、逐一その人と一緒にいたとしても、やはり相手の心の内を掘り下げる事はできません。

心の内って様々に複雑な要素がからみあって常時変化しているので、実は本人であっても理解できない部分がありますよね。

だから、人の心の内を理解する事は不可能だと思うし、理解したと思うのはとても危険な事だと思うんです。


だから、僕は写真を撮影する時、あるいは編集する時、自分がその人を見て感じた印象を、最大限投影できるようにしたいと思っています。

相手の心を掘り下げるのではなく、自分の心を掘り下げていく。

だから僕の写真は、自分の心情の記録でもあるかもしれません。

きっと、

「内面に迫って見える」

と感じるのは、その為だと理解しています。



こういう言い方だと誤解を招くかもしれませんが、だから、男性である自分には、女性の心の内面は、余計に理解できません。



女性も男性も共有の心的傾向はあるものの、やはり大きな違いがあると思います。

男性から見ると、複雑で、繊細で、ただ、決定すると、男性が及ばないほどの強さを発揮するのが女性であるとの認識です。


「女性の写真が遠く現実感がない」



というのは、おそらくその僕の女性像の心的投影だからです。

分からないから、ある意味、偶像視していて、そこが遠く現実感を伴わないと感じる一因かもしれません。


反面、相手が男性の場合、内面は分からないものの、男性である故の陰の部分も自分から連想して想像がつくので、異文化と呼ぶほどの遠さはないのかもしれません。


でも、これは自分の写真にとって悪い事だとは思いません。

一番大事にしている事が

「相手に対する自分の印象を忠実に表現する」

という事であるならば、分からない部分、偶像視している部分を、そのまま表現するのは正しい事だと思います。

現実感がなくとも、やはり逆境にあって闘い、自分の限界を突き詰めようとする女性の姿はとても美しいし、美しいと思うものを、そのまま表現する姿勢は大事だと思いたいです。


「肖像」としての光と罪

というは、おそらくずっと僕につきまとうテーマだと思います。

その時々で価値観も違ってくる事でしょう。



でも、今は、この価値観で、戦う女性を応援しています。







AYAKO TOYOOKA : THE ROSE


CHISAKO HARIGAI : THE ENGAGE SR-2


MAYUKO HAGIWARA [3A-VA-VA-3A-A-FF-∞]


CHIHIRO MATSUDA :a Tale in Snow

KANAKO NISHI :The Empress of [Blanc/Noir]

MICHIHO WATANUKI : Sonic Blade

Why Should I Cry For You?

If You Love Somebody, SET THEM FREE.





女性サイクリストの肖像 [NOT LOVE BUT AFFECTION]:Femme 

2011年1月18日火曜日

Why Should I Cry For You

昨年9月、横断歩道で大型トラックにひかれる事故に遭遇しました。


10トンのトラックだったのですが、奇跡的に左の肋骨を5本骨折しただけで済みました。


医師の見解では、9割以上即死していた状況だったそうです。


入院初日のベッドの上。


その時は痛みで寝返りも出来ず、唯一出来る事は考える事だけ。


「事故を避ける事は出来たのか?」


を考えると、結論は


「NO」


青信号で横断歩道を渡っている時に、視界の外から接近するトラックを確認する術はありません。



そう考えると、今この場でベッドで寝ている僕は、パラレル世界では遺体安置所にいて引き取られるのを待っているわけです。



人生を振り返る事もなく、

恐怖を感じる事もなく、

家族に別れを言うでもなく。


そして、家族をはじめ、様々な知人や関係者は、僕のいない世界で残される。


「死」という言葉は誰でも知っていて、いつか訪れる事は知識では知っている。


でも、漠然と、


「死」はずっと先の延長線。そしてその後の終焉


と思っていました。


でも、その時の僕は、なんの覚悟も後悔もドラマもなく、日常に「死」が寄り添っていた。


人生の延長の先の最後のイベントに「死」があるのではなく、

各ステージでランダムに発生する状況が「死」であり、それは「生」の対局ではなく、不可分な要素なんです。




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妻が父親を失ったのは14才の時です。


結婚当初、彼女があまり父親の事を語る事はありませんでした。



ただ、



「お父さんが死んだ時、まったく悲しくなかった。涙も出なかった。」




と言っていただけ。



最近になって、少しづつ、父親との思い出を話すようになりました。



・小さい姉妹を並べて、買ったばかりのフィルムカメラで写真を撮ろうとするけど、操作に手間取り、シャッターを押す時には、二人ともふくれてしまって変な顔の写真だった。




・音楽が好きだったので、お酒を飲みながら姉妹を座らせて、彼のアイドルであるカラヤンの素晴らしさをマニアックに延々と語って、さらに姉妹の不興を買った。




不興を買った話題ばかりだけど、妻が語るその描写は、とても生き生きしていて、父親に対する愛情が感じられます。




「でも、とても優しい人だった。」




父親をそう語るのも始めて聞いた気がします。



結局、彼女が父親との別離を消化できるまで、すごく長い時間がかかったんでしょう。



もしかしたら、最近まで、父の不在を納得していなかったのかもしれません。




人は人と影響しあう事で自我を形成する。


人と接する事で、自分と人の境界線を探り、不思議な事に、独立した存在になる。


彼女の当時の年齢では、父親との境界線があいまいで、彼女にとって、それは不可分の自分の心のピースだったのかもしれません。





もう少しすると、僕は彼女の父親が他界した年齢になります。


そして、それを過ぎて僕が生きているなら、当然ながら、彼女の父親との年齢は逆転し、父親は思い出の中でそのままだけど、僕は年老いていく。


とても不思議な気がします。



生きているのを変化する事だと考えれば、僕は紛れもなく、今は生きている。


でも、いろんな記憶や、彼女の価値観の中に父親は死後も生きている。


彼女は長い年月をかけて、父の不在を理解したけど、それと同時に、始めて父親からの愛情も理解した。そして父親への愛情も理解した。



死が不可避で、避ける事の出来ないものなら、死後に、家族や知人の心にそのように残っていけたら嬉しいです。



そして、自分を知る人達も全て他界した時が、それが本当の意味での「死」なんでしょう。









Sting.

Why Should I Cry For You 
1991


Under the dog star sail 
天狼星の下、舟は進む
Over the reefs of moonshine
Under the skies of fall 
月明かりに照らされた岩礁と秋空の狭間
North, north west, the stones of Faroe
北北西にフェローの岩が見える


Under the Arctic fire
Over the seas of silence
北極星の瞬きと
海の静寂の狭間
Hauling on frozen ropes 
凍てついたロープを手繰り寄せる
For all my days remaining 
僕に残された日々ずっと
But would north be true? 
でも、北が進むべき道なのだろうか?

All colors bleed to red 
全ての色が、血の朱に噴き出す
Asleep on the ocean's bed 
大海に抱かれて眠り
Drifting in empty seas
空虚な海を漂う
For all my days remaining 
僕に残された日々ずっと
But would north be true? 
でも、この道でいいんだろうか?
Why should I?
Why should I cry for you? 
どうして僕が?
どして僕があなたの為に泣かないといけないんだろう?
Dark angels follow me
Over a godless sea 
神無き海を闇の天使が僕についてくる。
Mountains of endless falling, 
いつまでも崩れていく山々
For all my days remaining,
僕に残された日々ずっと
What would be true? 
何が正しいんだろう?

Sometimes I see your face,
The stars seem to lose their place 
時折君の顔を思い浮かべると、
瞬く星々が消えていくようだ
Why must I think of you? 
どうしてあなたの事を考えないといけないんだろう?
Why must I? 
どうして僕が?
Why should I? 
どうして?
Why should I cry for you? 
どうして僕があなたの為に泣かないといけないんだろう?
Why would you want me to? 
なぜ僕に泣いて欲しいんだ?
And what would it mean to say,
That, "I loved you in my fashion"? 
それを言葉にする事になんの意味があるんだろう?
「僕なりに愛していた」って

What would be true? 
なにが正しいんだ?
Why should I? 
どうして
Why should I cry for you?
どうして僕は君を想って泣いているんだろう?

2011年1月16日日曜日

写真集 "NOT LOVE BUT AFFECTION" カフェサコッシュにて展示中です。

■追記 2011-01-23(日曜日)  写真集展示始まりました



サイクリストの肖像 “NOT LOVE BUT AFFECTION”

昨年は “rev.2010 code.Yin/Yang”として、455枚がFlickrに掲載されました。

昨年末、書籍としてまとめてみたいと考え、その中から20枚を選定し、書籍を作りました。

33.5cm X 23.3cm ハードカバー大型美術書サイズ。

その選択基準は、

「品質」

ではなく、

「自分が最も表現したいと思う形が、シンプルに現れているもの」


を選びました。



THIS IS REAL


今回、東京、下北沢のサイクリングカフェ、cafe sacocheさんのご厚意で、置いて頂ける事になり、広く皆さんに見て頂ける機会が持てました。


モニタで見るデジタルデータと、紙媒体に印刷された写真はまったく表情が異なります。

以前から、写真の究極の形は、プリントした大判の写真だと思っていました。
今回、始めて書籍をデザインする事になり、書籍には書籍の表現がある事に気がつきました。

書籍の装丁の制約があるからこそ可能な表現もあります。


関東方面の方、東京に行かれる方、是非実際に手にとって、見て頂けたら光栄です。


20のシーンのサイクリストの記録でもあり、

僕の葛藤の記録でもあります。

是非。







16-jan-2010 18:00 追記

展示は今週(1/17日(月)〜1/23日(日)のいずれかから開始です。
開始したらまた告知します。
2月までは知人に寄贈したものを展示していただきますが、その後、カフェサコッシュさん用に寄贈したものを置いて頂く予定で、期限はとりあえずありません。

2011年1月13日木曜日

GIFT

「才能」という意味を表す言葉のうち、”gift”は文字通り

「天賦の才」

を表します。

まさに天から授かった才能。生まれつきの資質
スポーツでも芸術でも、確かに「天賦の才」を持つ人は存在し、その人を間近に見ながら同じ事をしていると、理不尽な絶望を感じます。

彼ら、彼女らは、まるで、スタートレックのワープ航法のように、膨大な距離を一瞬で移動しているように見えます。

まるでプロセスなど存在せず、最初から解が頭の中に浮かぶかのように。

写真を撮るという行為は、経験、知識ももちろん重要なのですが、そもそも撮り始めた時から目を引く写真を撮る人というのはいて、やはりgiftは存在します。

というより、絵画や音楽は基礎技術と基礎知識は絶対に必要ですが、写真は基本、

「シャッターを押すだけ」

なので、圧倒的に敷居が低い。

なにかを表現する手段として、これほど入り口が広いものもないでしょう。

つまり、入り口が広いだけに、giftが明確になるように見えます。


でも、数学と違い、表現の分野では正解がありません。
つまり、そのgiftは、

「数多あるパスの中で、高い品質に到達できる才能」

なんです。

絶対評価が出来ないので、それは「標準よりも高い品質を有する」という相対評価でしかない。


でも、それは「相対的な高品質」でしかないだけに怖いgiftです。

なぜなら、常に自分を客観視できないと、与えられたgift以上には進めないからです。



写真を始めたのがレースの写真だったので、2009年末まで、ほとんど自転車レースの写真ばかり撮影していました。

自分が好きな自転車レースを撮影できるのが、ただひたすら嬉しくて、また人に評価されるのが嬉しくて、レース以外を撮影する事はありませんでした。

たとえば、「花」や「風景」は、写真の定番ですが、まったく興味は湧かず、酷い話ですが、「隠居した老人の嗜み」ぐらいに思っていました。


2010年2月。友人のお母さんが他界され、衝動的に、その手向けに花の写真を撮ろう、と思い立ちました。

植物園で咲いていた紅梅。


[February]  in memories of..(take-2)


改めて花を花として見てみると、いろいろ気づく事が多いです。

・当然だけど動かない。
・被写体が動かないから、こちらが動く。構図を作る。
・レースでは基本、入力がきてシャッターを押す「受動」。しかし、花の場合、こちらから出力して構図、露出を構築する「能動」
・始めて考える。「構図とは?」「自分の求める露出とは?」(適正露出ではない)


この年の春、膨大な数の花を撮影したのですが、レースでは思いもよらなかった様々な考え方が出来て、とても興味深かったです。




on the Edge of Purgatory 6


そして、そこで模索した事は、またレースの写真にフィードバックされる。

2010年春以降のレースの写真は、あきらかに構図を意識し、露出を意識しています。


レースの写真が受動である事には変わりはない。

でも、その短い時間で模索した結果は、反射として表に出す事が出来る。

まったく無駄だと思っていたピースが、思いもかけず、自分の本筋を補完する結果になりました。


これは「無駄も役に立つ」という教訓ではありません。

自分が進んでいる道がゴールがなく、常に模索の連続であるなら、

「今ある道の延長」

だけでなく、

「ノイズのように思えるランダムな結果」

から、道を見つけ、それを真剣に考える事はとても重要だと思います。


たとえば、生物の進化の歴史。

これは常に環境適応型の正常進化ばかりではありません。
環境に適応しすぎた種は、環境ゆえに滅びます。

時々発生する「突然変異」

それが異端であっても、そのノイズが生命全体にパラダイムシフトを起こす触媒になっています。


その突然変異の種を見つけ、それを徹底的に検証する事。

それが一番大事な事だと思います。


だから、もし「天才」という称号を与えられる人がいるなら、
その人はとても不幸かもしれない。

giftで上げられた高みまでしか行けず、その位置が高ければ高いほど、自分を見つめ直す根拠がない。

泥臭くても、地をはうような姿勢をしていても、

自分の目と耳と頭で、一つ一つの土塊を判断したいし、その姿勢は忘れたくないと思います。

格好悪い事を恐れていてはいけないんですね。


CHISAKO HARIGAI   :Cyclo Lovers Rock-13 : on the Edge

2011年1月10日月曜日

Message in a Bottle

著名人にサインをもらいたいと思った事はありませんでした。



元々、サインというものが何を意味するのかも分からず、漠然と

「著名人と会った記録」

みたいなものかな、と思っていました。



日本の景勝地に時々ある記念スタンプみたいな印象ですね。

最近になって理解したのですが、それって写真と同じですよね。

「その人を記録する」

そう考えると、僕がサインを欲しいと思わないのは、写真を撮るからだと思います。


8日に、昨年お世話になった知人と食事をしました。

僕が昨年末に個人的に制作したロードレースの写真集を持ってきて頂きました。

彼女はいくつかのレースやイベントで、その本に記載されている選手に、それぞれのページにサインをもらっていたので、それを見せてもらうためです。

それぞれの方のサインを見て、不思議な感慨がわきました。



以前書いたように、自分にとって、「肖像写真」というのは

「その人に向けての自分の手紙」

に等しいものです。



今、自分が向けた手紙をいろんな人が見て、それにサインをしている。



サインをもらった時の様子を、知人がいろいろ教えてくれます。



「えっ、なにこれ!めっちゃ欲しい!」


「私、ちゃんとしたサインがないんでちょっと恥ずかしいんですw」


「えっ、これどこ?どこで撮ったの?」





驚かれながらも、喜んでサインをして下さったとの事。

そうですね。それは手紙に対する返信みたいなものです。


人に気持ちを伝えるのに、様々な手段があるけど、やはり、「形」のある手段は説得力を持つし、それに長い時間にわたって残る。


知人に写真集を差し上げた時、

「サインもらおうかな?でもサイン帳じゃないから失礼ですよね?」

と彼女は言っていたのですが、今になって思うと、この写真集は、実は、サインが入った状態で完成と言えるのかもしれないですね。


様々な筆跡の返信の束をテーブルに置いて、ファインダーで見つめながら、そんな事を考えていました。

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2011年1月7日金曜日

Portrait of Women(st-1)

昨年、Ustreamで、友人によって行われたインタビューのテーマは

「女性の肖像」

でした。

その時の内容

1.女性の肖像写真を撮影するのは苦手。

2.なぜなら、男性である自分は、男性に対してより、女性に対して踏み込む事が出
        来ない(=より大胆なエフェクトを加える事が出来ない)

3.なぜ、踏み込めないか? という議論には、放送中は結論が出ず。

4.教育の問題、倫理観、いろいろ上げられたが、後日、インタビュアーとの雑談の中で、
        「女性は輪郭が丸いから、シャープなエフェクトが加えられないのでは?」
        との意見が出て、方法論だけの問題との結論。


5.女性の美しさ、というのは何か?

        →造形的問題だけではない
        →華道では、綺麗なだけでは「美」ではない。清濁併せ持つものが「美」
        →なぜそれが「美」か?
        →清濁併せ持つ事が、生物としての多様性を表し、
        「生命としての強さ」=「原始的なアピール」
        につながっているのではないか?

という事でした。



レースの写真の撮影を始めた2008年末から、2009年12月ぐらいまで、女性を撮影する事はほとんどなく、被写体はほぼ男性ばかりでした。

その当時は無意識でしたが、今理由を考えてみると

1.まず、女性カテゴリーのレースが関東以外では少ない。

2.女性アスリートを撮影する行為は、その当時、世間ではビーチバレーの選手に対        しての無遠慮な撮影が問題になったように、なにか後ろめたさを感じる。

という事だと推測します。

その時まで、NOT LOVEに登場した女性は、わずか3名。

ただ、2009年の全日本シクロクロス選手権(金沢)で状況が一変します。
始めて見た女性カテゴリーのレースで、しかもシクロクロス。

シクロクロスは、ライダー自体にフォーカスしたい僕にとってはうってつけの種目です。

・自転車レースなのに、自転車に乗らない区間がある
・低速でより接近しやすい


金沢は泥のレースで、泥まみれになりながら、前を見つめて戦う女性の姿は本当に美しく、NOT LOVE 2009の全体の約40%が全日本シクロで、その中の65%近くが女性です。このレースを境に、被写体としての女性が急増します。

AYAKO TOYOOKA :piano forte


NOZOMI NAKAMICHI: Pietà

Die Brünhild mit Schlamm

MASAMI MORITA :Presto

CHIKA FUKUMOTO :Presto


この時点では、確かに、まだ女性を撮影する事に対して遠慮はあるのですが、始めて被写体としての女性を認識し、とても惹かれている時です。


なぜ、その姿を美しいと思ったのか?


アスリートが持つ美の一つには、当然


「突き詰めた強さ」


というものがあります。
アスリートとしての男性と女性を見比べると、面白い事に、女性の方が、その「強さ」が剥き出しで、認識しやすいんです。

アスリートとしての男性は、なぜか「儚い」部分をどうしても感じるのですが、
アスリートしての女性は、「生命としての強さ」を痛感します。


それがなぜか、今はよく分かりません。

少し考えてみる為に、この話は、次回へ続きます。


(to be continued)

MASAMI MORITA :Le Blanc Suprême-7

2011年1月6日木曜日

Expression

人の表情はとてもデリケートなものです。


特にファインダーで見ている人の表情。
レースではなく、正面から人を撮影した時、その表情の移ろいは、自分との距離感でもあり、とても捕らえるのが難しい。

手のひらに落ちた淡雪みたいに、1秒の時間が長く感じます。

2010年のシマノ鈴鹿ロードで、あるチームの撮影をさせて頂いた際、チームの方から

「どんどん指示して撮ってください!」

と言われたのですが、その時になって、人を正面から撮影する事の難しさ、恐ろしさを痛感しました。

その時まで、人物の写真を撮り、それに自分の印象を乗せてレタッチする事に、なんら躊躇いがなく、自分も目標に誘導する事は普通だと思っていました。

ただ、正面から写真を撮る時、視線やポーズを要求するのは出来ませんでした。

もしかしたら、それは正面切っては自分の意見が言えないような卑怯な感情なのかもしれません。

その時は分からなかったのですが、いろいろあった今になって考えてみると、

<レタッチしている時>
その人が発散した熱量、その印象を忠実に再現する為に、光学的表現では再現できなかった側面を表現しようとしている。

という事だと思っています。

つまり、その人物の印象を表現する手段としてレタッチがあり、その時には自分の主観要素が全面に出てもいいが、撮影時に、その人の意図と違う要素をノイズとして入れたくない。

たとえば、相手に、ある動作を要求した場合、それは相手の自由意志ではなく、表情は死んでしまう気がするんです。

職業的被写体の場合、要求により表情を作るスキルがあるのですが、それは僕が求めているポートレイトとは違います。

でも、興味深いのは、指示をしなくても、自分の存在を消す、というのとは違うんです。

初対面であっても相手に信頼されなければならず、その為には自分を偽ってはならない。
そして、会話の流れ、時間の流れの中で、表情は常に移ろいゆく。

その時、その人の表情がどのように移ろうのか見つめているのは、とても刺激的な経験だし、レース自体を撮影しているよりも、はるかに緊張感を伴い、半分呼吸する事も忘れている事が多い。


人の表情がとても興味深いと感じたのは、シマノ鈴鹿ロード2009のポディウムに立つ別府史之選手を撮影した時です。


その時は、まだ写真を始めたばかりで、自分がどういう写真を撮りたいのかも分かっておらず、あまり写真を撮る意味を見いだせていませんでした。


別府史之選手はその年のツールドフランスに出走され、シャンゼリゼ・ステージで敢闘賞を獲得。その凱旋レースでした。

別府史之選手を実際に見たのはこの時の鈴鹿が始めてです。

それまで写真を見た印象では、柔らかい印象の、穏やかそうな、優しそうな青年、という印象でした。


でも、ポディウムで見た時、それまでの写真で見た印象とはまったく違い、強い意志を持った、ある意味、「揺るぎのない」表情だと感じました。

長い欧州生活で培ったものなのか、あるいはツールでの経験で、なんらかのブレイクスルーがあったのか。


ファインダーで見ている彼の表情は、随時変化し、確かに、それまで見た事のある表情も多いのですが、全ての表情の底には、やはり強い意志が垣間見え、そして、その時、最後に撮影した表情は今までにまったく見た事のなかった表情でした。


<撮影時のオリジナルjpeg>
FUMIYUKI BEPPU



特に気負っているわけでも、劇的な表情でもなく、とてもニュートラルな表情なのですが、彼が通過してきた道や葛藤みたいなものが垣間見えるような気がします。
ちょうどモナ・リザの肖像のように、見る人により、また見る人の気分により、いろんな見方のある表情です。


その時に感じた印象をずっと反芻していて、半年後にモノクロームにしたもの。

<モノクローム変換>


FUMIYUKI BEPPU  :Le Blanc Suprême-45


印象は「経験と成長」だったので、陰影はどちらかというときつく、汚れのように。
これは、僕がその時にもった印象そのものです。



人によっては、これは罪深い愚行と写るかもしれません。
でも、その時にファインダーで見ていた印象は、まさに色が抜けた音のない世界のようでした。



その時も、今でも、別府史之さんとは言葉を交わしてはいません。
今自分が追求している「相手と対面し、その印象を記録する」というテーマ以前の撮影です。

自分が会話して、そして作り上げた関係はそこには投影されていません。
だけど、それは要求した表情でもない。

表情は一期一会の物で、今は当時より、技術的にも人間的にも成長していると思いたいのですが、同じ表情は絶対に撮れないと思います。


人の表情は、本当に多くの情報の宝庫です。そして、それは受け手の数だけ正解がある。


ずっとこの写真はご本人に渡したいと思っていて、念願かなって友人の協力により、昨年のサイクルモード大阪でお渡しする事が出来ました。
(僕は交通事故の影響で行けませんでした)


自分からの直球の手紙でしたが、とても喜んでくださったそうで、終了後、Twitterで

“Special Thanks to You!”

のメッセージを頂いた時は、ずっと、自分が葛藤していきた事が一つ完結した気がして、とても救われた気持ちでした。


僕が人の表情の写真、というのに真剣に取り組もうと思った原点のショットでもあり、とてもニュートラルな表情なので、その時の自分の心情を表現するのに、たぶん、この先も挑戦し続ける題材だと思います。

迷った時には見返して、自分の原点を確認しています。

原点だけど線分上の通過点ではない、

ある意味、この時だけ撮れた到達点でもあります。

FUMIYUKI BEPPU :Adagio :take-2

Separate Ways

2010年シーズンで、競技生活にピリオドを打たれた方は、僕の知る限りでもとても多かったです。
本格的に国内のロード競技を見だしたのは2009年からなので、普段がどれぐらいかは把握していないのですが、キャリアを全うされた方よりも、20代前半や10代の、かなり若い方がキャリアの転換を表明されたのに驚きました。

引退を表明されるアスリートの心理がどのようなものかは想像も難しいのですが、新しく選択されたそれぞれの道で、それぞれの納得のいく人生を歩まれる事を祈っています。




プロアスリートの世界、移籍、引退は当然で、それは知識としては頭の中に入っていました。

でも、短い観戦歴の中で、撮影し、写真をお渡しする機会があり、言葉を交わしてきた人が、その競技から去るのは、陳腐な表現ではありますが、「寂しい」と言わざる終えません。

ロード競技はとても選手とファンとの敷居が低く、コミュニケーションを取りやすいのが特徴です。

それもあり、ファンの皆さんは、この競技に対してファナティックともいえる忠誠心を示し、

「観戦する」

という受動的姿勢よりも、

「自分たちで作り上げる」

という能動的姿勢が強いように思えます。

だから、新しい道を行く選手には、惜しみない声援と努力で送りだそうとするんですね。





引退を表明されたある選手に、全日本シクロの会場でお会いする機会がありました。

全日本ロードの時の写真をそれ以前に送っていて、お話を聞くのはそれが始めてでした。


「他に僕の写真はありませんか?やっぱりないですよね?」


その言葉は、社交辞令ではなく、本当に彼が心から、自分のレースの写真を欲している事が分かる響きを持っていました。

帰ってからライブラリを探し、全日本ロード内で8ショットを発見し、お渡しする事が出来ました。


その時に思い出しました。

以前に、アスリートの方にとって、写真が重要な意味を持つと思った事を。


自分が、例え短い間でも、全身全霊で打ち込んだ対象が、それが自分の記憶だけではとても辛い。

「証」が「形」として残る事はとても重要な事です。

もしかしたら、すごく辛い時期に、自分が戦っていた姿を見て、なにか思い出すからもしれない。

もしかしたら、将来の自分の家族に、その姿を見せる事になるかもしれない。

その時、自分はなにを考えていたのか?

なにと戦っていたのか?



報道として全体を伝える写真ではなく、本人の皮膚感覚をトレースするかのごとく寄る写真にも、そこにだけは価値があるのかもしれません。

他の人が見ても分からない、本人だけが思い出すなにか。



選手として退かれても、なお、別の形でレースの現場に残るひと。

そして、まったく新しい道を行くひと。


タイムカプセルに入れる手紙のように、何年か、何十年か先に、写真を見て、なにか思うところがその人にあったら、それはフォトグラファーとしてとても幸せな事です。







Good friends we have, oh, good friends we've lost
Along the way
In this great future you can't forget your past
So dry your tears, I say

俺たちの大事な友達、もう失ってしまったけど

生きている間はそんな事もある。
これから素晴らしい未来が君を待っているけど、過去を忘れてはいけないよ。
だから涙をふいて。


No, Woman, No Cry (Bob Marley And The Wailers)

Life is Just a Dream, You know. : Blue

MAKOTO IIJIMA :con fuoco

YOSHINORI IINO :molto Allegro

MAKOTO SHIMADA : animando

TAKUMI BEPPU: Inferno!!

HATSUNA SHIMOKUBO : adagio

CHIHIRO MATSUDA :grazioso