2011年1月13日木曜日

GIFT

「才能」という意味を表す言葉のうち、”gift”は文字通り

「天賦の才」

を表します。

まさに天から授かった才能。生まれつきの資質
スポーツでも芸術でも、確かに「天賦の才」を持つ人は存在し、その人を間近に見ながら同じ事をしていると、理不尽な絶望を感じます。

彼ら、彼女らは、まるで、スタートレックのワープ航法のように、膨大な距離を一瞬で移動しているように見えます。

まるでプロセスなど存在せず、最初から解が頭の中に浮かぶかのように。

写真を撮るという行為は、経験、知識ももちろん重要なのですが、そもそも撮り始めた時から目を引く写真を撮る人というのはいて、やはりgiftは存在します。

というより、絵画や音楽は基礎技術と基礎知識は絶対に必要ですが、写真は基本、

「シャッターを押すだけ」

なので、圧倒的に敷居が低い。

なにかを表現する手段として、これほど入り口が広いものもないでしょう。

つまり、入り口が広いだけに、giftが明確になるように見えます。


でも、数学と違い、表現の分野では正解がありません。
つまり、そのgiftは、

「数多あるパスの中で、高い品質に到達できる才能」

なんです。

絶対評価が出来ないので、それは「標準よりも高い品質を有する」という相対評価でしかない。


でも、それは「相対的な高品質」でしかないだけに怖いgiftです。

なぜなら、常に自分を客観視できないと、与えられたgift以上には進めないからです。



写真を始めたのがレースの写真だったので、2009年末まで、ほとんど自転車レースの写真ばかり撮影していました。

自分が好きな自転車レースを撮影できるのが、ただひたすら嬉しくて、また人に評価されるのが嬉しくて、レース以外を撮影する事はありませんでした。

たとえば、「花」や「風景」は、写真の定番ですが、まったく興味は湧かず、酷い話ですが、「隠居した老人の嗜み」ぐらいに思っていました。


2010年2月。友人のお母さんが他界され、衝動的に、その手向けに花の写真を撮ろう、と思い立ちました。

植物園で咲いていた紅梅。


[February]  in memories of..(take-2)


改めて花を花として見てみると、いろいろ気づく事が多いです。

・当然だけど動かない。
・被写体が動かないから、こちらが動く。構図を作る。
・レースでは基本、入力がきてシャッターを押す「受動」。しかし、花の場合、こちらから出力して構図、露出を構築する「能動」
・始めて考える。「構図とは?」「自分の求める露出とは?」(適正露出ではない)


この年の春、膨大な数の花を撮影したのですが、レースでは思いもよらなかった様々な考え方が出来て、とても興味深かったです。




on the Edge of Purgatory 6


そして、そこで模索した事は、またレースの写真にフィードバックされる。

2010年春以降のレースの写真は、あきらかに構図を意識し、露出を意識しています。


レースの写真が受動である事には変わりはない。

でも、その短い時間で模索した結果は、反射として表に出す事が出来る。

まったく無駄だと思っていたピースが、思いもかけず、自分の本筋を補完する結果になりました。


これは「無駄も役に立つ」という教訓ではありません。

自分が進んでいる道がゴールがなく、常に模索の連続であるなら、

「今ある道の延長」

だけでなく、

「ノイズのように思えるランダムな結果」

から、道を見つけ、それを真剣に考える事はとても重要だと思います。


たとえば、生物の進化の歴史。

これは常に環境適応型の正常進化ばかりではありません。
環境に適応しすぎた種は、環境ゆえに滅びます。

時々発生する「突然変異」

それが異端であっても、そのノイズが生命全体にパラダイムシフトを起こす触媒になっています。


その突然変異の種を見つけ、それを徹底的に検証する事。

それが一番大事な事だと思います。


だから、もし「天才」という称号を与えられる人がいるなら、
その人はとても不幸かもしれない。

giftで上げられた高みまでしか行けず、その位置が高ければ高いほど、自分を見つめ直す根拠がない。

泥臭くても、地をはうような姿勢をしていても、

自分の目と耳と頭で、一つ一つの土塊を判断したいし、その姿勢は忘れたくないと思います。

格好悪い事を恐れていてはいけないんですね。


CHISAKO HARIGAI   :Cyclo Lovers Rock-13 : on the Edge