眠りつけない夜に、Stingの1985年の記録映画、”Bring on the Night - a Band is Born”を見ていました。
当時の最高峰のジャズミュージシャンが結集して作られた「ロック」バンド。
そのバンドによるアルバム、”The Dream of Blue Turtle”の制作と、そのライブを収録した映画です。音楽ドキュメンタリーの傑作の一つと言われています。
映画の冒頭で、参加ミュージシャンが、Sringについての印象をインタビューで答えているのですが、バックボーカルの女性「Ms.Dollette McDonald」が語った印象がとても興味深かったです。
「彼(Sring)の音楽は「本能」と「知性」の両方を刺激する。そんな音楽は珍しい。」
その言葉はとても印象的でした。
改めて辞書で引いてみると
ほん‐のう【本能】
動物個体が、学習•条件反射や経験によらず、生得的にもつ行動様式。帰巣本能•防御本能•生殖本能など。
ち‐せい【知性】
1
物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。「―にあふれる話」「―豊かな人物」
2
比較•抽象•概念化•判断•推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力
つまり聞く人に対して複数のレイヤ
本能
先天的特性
制御不能
認識不能の世界(感覚も認識も及ばない世界)
意識(認識、情緒)
後天的特性
ある程度制御可能
認識された世界(感覚的所与を認識に昇華させた世界)
に働きかける音楽、という事です。
表現がメッセージとするなら、これは究極の表現です。
相手の本能、感覚、認識の全てに訴えかけるメッセージだからです。
この言葉を聞いたとき、僕が写真で目指したい世界も、
「本能」と「知性」に訴えるもの
なのだと直感的に思いました。
でも、その後、
「本能」と「知性」に訴える写真ってなんだろう?
と考えました。
いきなり知的でない表現を使うと、
「本能に訴える写真」
は、現代風に言うと
「萌え」
なのかもしれません。
説明不要、修飾不要、それだけで完結し、認識を超越して訴えかけてくるもの。
「知性に訴える写真」
知性が「感覚を認識に変換する能力」だとすると、
「写真からの事物の抽象的視覚情報から、具体的な意味情報を伝える事」
と言えるのかもしれません。
つまり、本能が言葉を超越して伝わる(グッと来ると一般に言われる感覚?)のに対して、知性は言葉で伝わる。
「写真を見て、様々な事を想像したり、連想したりする」
という表現を良く見ますが、まさにそれが知性に訴えている、と言えるのではないでしょうか?
振り返って自らの写真を見ると、本能に訴える部分はあると思うのですが、知性に訴える部分は弱いように思えます。
それは、自分の写真が、あまりにもシンプルで、主題が明確に一つだからです。
メッセージが強すぎて、想像の入り込む余地が少ないかもしれません。
それはアップがいけない、という事ではありません。
一見、周辺情報を欠落させていくような被写体へのアップでも、その視線や、アイウェアの反射や、口元の動きで、かなり想像の余地は広がるはずだと思っています。
では、もっとメッセージに対するフォーカスを弱くした方がいいのか?
でも、それをすると、自分が自分ではなくなるような気がします。
自分で写真を撮る意味がないと。
結局、2011年1月27日現在では、僕は本能に訴えかける表現に特化して、知性に訴えかける「何か」が足りないようです。
良し悪しではなく、これも僕の今の世界ですね。
その世界も、経験により、また変わっていくかもしれません。
でも、今の段階では、偏ってはいるものの、明確に自分の世界が、写真という表現の中で持てている事は、幸運な事だと思っています。