Previously on “Portrait of Women(st-1) (前回までの話)
昨年末、それまでのモノクロームだけの世界から、カラーに挑戦した時、ある女性のポートレイトを見た友人(女性)が言いました。
「この写真はあまり好きではありません。まるでお人形さんのように現実感がなく、遠い気がするんです。」
また、別の女性のポートレイトを見た、ある知人(女性)は言いました。
「あなたが撮影した写真を見ると、なんだか心の中を見透かされている気がするんです。なんというか、生々しく近い感じ」
これもとても対照的な意見です。
時々、写真を評して
「相手の内面に迫るようだ」
と言われる事があるのですが、とても光栄な意見だけど、それは違うと思っています。
僕はやはり撮影している相手の事は分からない。
理解したいと思うし、その努力はしているつもりです。
でも、例え戦績を暗記し、逐一その人と一緒にいたとしても、やはり相手の心の内を掘り下げる事はできません。
心の内って様々に複雑な要素がからみあって常時変化しているので、実は本人であっても理解できない部分がありますよね。
だから、人の心の内を理解する事は不可能だと思うし、理解したと思うのはとても危険な事だと思うんです。
だから、僕は写真を撮影する時、あるいは編集する時、自分がその人を見て感じた印象を、最大限投影できるようにしたいと思っています。
相手の心を掘り下げるのではなく、自分の心を掘り下げていく。
だから僕の写真は、自分の心情の記録でもあるかもしれません。
きっと、
「内面に迫って見える」
と感じるのは、その為だと理解しています。
こういう言い方だと誤解を招くかもしれませんが、だから、男性である自分には、女性の心の内面は、余計に理解できません。
女性も男性も共有の心的傾向はあるものの、やはり大きな違いがあると思います。
男性から見ると、複雑で、繊細で、ただ、決定すると、男性が及ばないほどの強さを発揮するのが女性であるとの認識です。
「女性の写真が遠く現実感がない」
というのは、おそらくその僕の女性像の心的投影だからです。
分からないから、ある意味、偶像視していて、そこが遠く現実感を伴わないと感じる一因かもしれません。
反面、相手が男性の場合、内面は分からないものの、男性である故の陰の部分も自分から連想して想像がつくので、異文化と呼ぶほどの遠さはないのかもしれません。
でも、これは自分の写真にとって悪い事だとは思いません。
一番大事にしている事が
「相手に対する自分の印象を忠実に表現する」
という事であるならば、分からない部分、偶像視している部分を、そのまま表現するのは正しい事だと思います。
現実感がなくとも、やはり逆境にあって闘い、自分の限界を突き詰めようとする女性の姿はとても美しいし、美しいと思うものを、そのまま表現する姿勢は大事だと思いたいです。
「肖像」としての光と罪
というは、おそらくずっと僕につきまとうテーマだと思います。
その時々で価値観も違ってくる事でしょう。
でも、今は、この価値観で、戦う女性を応援しています。
女性サイクリストの肖像 [NOT LOVE BUT AFFECTION]:Femme