2011年10月16日日曜日

自由


手紙でもいいし、プログラムコードでもいい。
写真でもいいし、音楽でもいいし、宗教絵画でも漫画でもいい。

何かを作っている時、あなたは自分の自由を感じるだろうか?


日本の小学校で、最初にまとまった文章を書く経験は、おそらく作文の授業だ。

子供の時、家にあった児童文学(ヴェルヌとかHGウェルズとか)がとても好きで、何度も読み返していたので、作文の授業はとても興味があった。

あのワクワクするような物語を作る方法を教わると思ってた僕は、先生の言葉に衝撃を受けた。



「思った事を好きなように自由に書きなさい。」





例えば絵だったら、

子供は必ずなんらかの方法で絵を描く。
技術云々以前に、画用紙にでも机にでも、クレヨンや、マジックで絵を描く。

これは視覚表現である絵の特権かもしれない。
どのようなレベルであれ、目の前に提示されたらそれは「表現」として鑑賞可能だ。

ただ、文章は違う。


読み手は、文字コードの配置から、書き手が提示しようとしている情景を組み立てる必要がある。

つまりコードの実体化だ。


実体化されて初めて文章は鑑賞対象となる。
だから、なによりも、実体化させる時のストレスをなくさないといけない。

基礎技術がとても大事な分野なのだ。
絵画ではなく、表現としては音楽に近い。(ただ、音楽よりは、技術の敷居は低い)

文法、語彙はもちろんだけど、文章の基礎技術で大事なのは膨大な型の蓄積だと思う。
剣術に型があるのは、多種多様な実戦での状況の中、型に適合する状況に体を自動反射させ、迅速に対処するためだ。


型は「型にはめる」という使われ方もするし、創作とは相容れない言葉にも思える。

だけど、文章の世界で創造性(作家性)を発揮するためには、膨大で単純な型の、気の遠くなるような蓄積が必要で、文学的才能を例えるなら、


“巨大な地層を膨大な年月をかけて浸透し、最後に洞窟の岩肌から滲み出る純水”



だと思う。(もちろん僕は文筆家ではないので、客観的な観察による印象だけど。)

だから、なにもない子供に対して、

「自由にしてよい」

と告げる事は、恐ろしく不自由を強いる事になる。



猿人が手にした水牛の骨が、敵対する相手を殺す武器になり、そしていつしか木星探査をする宇宙船になる。

骨(ツール)がなければ、猿人は絶滅していくだけだった。
ツールを手にして、初めて進化し、そして自己を表現できるようになった。


こう考えると、既得権益としての自由はないんだ。

いや、既得権益ではない。

デフォルトの状態での「自由」が存在しないという事だ。



型を積み重ねて行く過程で、作家の能力の分岐点は必ず現れる。

型をトレースする事自体が目的となり、型の内側を衛星のように周回するか、
あるいは、散在する型と型を組み合わせ、初めて自分で「型」を作る創造を行うか。






僕のような世代は、思いついたアイディアには、大概、アニメなり特撮なりの元ネタがある。
今の時代には、完全なオリジナルなんかないんだ。
全てはリメイクでリミックスなんだ。

庵野 秀明