2011年8月11日木曜日

愛するものを殺せ


iPhoneのアプリケーションデザインの本を読んでいたら、デザインをする時の指針として、こんな言葉が使われていた。



「愛するものを殺せ」



刺激的なタイトルにびっくりするが、文筆家の好む金言だそうだ。

「いつになく見事な文章を書いてしまいそうな衝動を覚えたときは、いつでもそれに従え。全身全霊を傾けて。
そして、原稿を出版社に送る前に捨ててしまえ。」

-アーサーキラークーチ


新しい試みについてプレストを行うとき、多くのエンジニアは既存の技術の延長線と応用で考える。
オープンソースとクラウドサービスの時代において、不特定多数のエンドユーザーを対象にしたサービスは、既存のフレームワークとサービスの組み合わせになるので、ある意味それは正しい。


極めてプライっベートな用途に使うスマートフォンのアプリケーションについて、非技術系の人間の要望はとても面白い。

欲望に飾りがないからだ。

技術畑の人間は、それを聞くと鼻で笑う事が多い。
そして、

夢より現実を見た方がいい、というように。


僕もそういう見方をする事が多かった。

単なるiPhoneアプリケーションといっても、iOSのAPIレイヤーから、バックエンドのWebプロセスに至るまで、その外見の裏側では、膨大な実証技術の蓄積に成り立っている。

エンジニアは、その膨大な暗黙知の上に考える癖がついているので、その前提を飛ばして議論が飛躍する事を好まない。

でも、既存の技術と常識の蓄積だけでは、本当にインパクトのあるブレイクスルーが生まれにくいのも確かだ。

なぜなら、現状から逆算した未来だと、既存の技術が想定しているパラメータの組み合わせの範囲内になり、すぐに競争の中で淘汰されやすい。


初代iPhoneの発表時、事前の報道では

「iPod機能のついた携帯電話をAppleが開発中」

というものだった。

今になってみるととても可笑しい話だけど、スマートフォン(あるいはPDAフォン)という概念で予想していたメディアはなかったように思う。

当時、iPodは破竹の勢いで、ユーザーとしてみても、ケータイにiPod機能がつくのは魅力的だった。

考えてみれば、Appleがケータイを出すのにそんな単純な回答を用意するわけはないのだけど。

発表の夜、ニュースサイトで最初にiPhoneの外観を見たとき、正直僕は不安になった。

それは全面タッチスクリーンのケータイで、それまでの記憶では、いくつかそういう端末は登場していたが、成功例はなかったからだ。
(スマートフォンは存在したが、当時の主流は今では少数派のキーボード付きタイプだった)

しかし、ジョブスによるiPhoneのデモは衝撃的だった。

一番の驚きは、Mapのデモだ。

Mapでサンフランシスコを表示し、スターバックスを検索。
画面内のスターバックスの場所に赤いフラッグが表示される。
そして、一つのフラッグをタップすると、その店舗の電話番号、住所情報が表示される。

驚いたのは、そこに表示された電場番号をタップして、直接スターバックスに電話をかけたことだ。


「会場の皆さんにラテのトールを。」


この時の衝撃は、今スマートフォンを使っている人には理解出来ないかもしれない。
その当時のスマートフォンの主流の機能は

電話+PDA(いわゆる電子的な手帳)

だった。

スケジュール、カレンダー、連絡帳という基本機能は今のスマートフォンと同じ。
だけど、あくまで主機能は「電話」であり、PDA機能は副次的機能だった。(連携するアプリは連絡帳ぐらいだったと思う)

Mapのデモを見てもわかるように、iPhoneの場合は、電話すら機能モジュールの一つであり、アプリケーションが「電話機能」として呼び出す事もあるのだ。

iPhoneはケータイ「電話」ではなく、ケータイ「コミュニケーションツール」として設計されている事がとてもよく分かるデモだった。



レガシーケータイ(いわゆるガラケー)は、とても操作と設定が複雑だった。
素晴らしく高機能ではあったのだけど、複雑なキーバインドが必要だったり、目的の機能をONにする設定がとても深かったりした。

目的は単なる写真の移動なのに、そこに至るパスが険しすぎた。

それは文筆家の「見事な文章」だったのかもしれない。


iPhoneの場合、実装基準は機能ではなく、
「ユーザーのやりたいこと」
だったように見える。


ユーザーがiPhoneでやりたい事を明確に決め、目的に至るパスを最短にする。


そして、ユーザーのやりたい事ではない、あるいは優先順位が低いと目された内容は、たとえ「コピー&ペースト」ですら、初期のヴァージョンから切り捨てる。

逆に、タッチスクリーン操作に実際に触っているかのような感覚を付与するため、UIデザインには過剰ともいうべきこだわりがある。

iPhoneの曲目リストや住所録は、ローロデックスのように、ユーザーが指でめくるとスクロールし、しかも最初は早く、次第に、まるで本物のローロデックスの回転が抵抗でゆっくりになるかのうように、回転が遅くなる。
しかも、最後のリストになると、回転停止のショックで、若干リストが上に跳ね返るぐらいの凝り方だ。

一見無駄な工数をかけて、自己満足しているだけに見える。

だけど、前述のスクロールの物理法則運動は、おそらく、使っている人の多くは気がついていない。

それは実装が無駄だったからではない。

気がつかないほど自然だからだ。
細部のこだわりによって、実際に物理的媒体に触っている感覚になっているからだ。


おそらく、開発プロジェクトの途中で、実装目前に捨てられた機能は膨大な数に登るだろう。

それをあえて捨てる事ができるのも、設計目的がブレてないからだ。


目的のない「シンプルさ」は逆に「装飾」だ。


写真もそうだと思う。

目的がなければ、

ハイキー=優しい
ローキー=荘厳

というパターンをなぞるだけだ。

行き場のないパターンは過剰になり、目的を失ってさまよい、そして淀んでしまう。

シンプルさは自然体からは生まれないと思う。

膨大な挑戦と実験と失敗から生まれるのだ。













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