随分以前に読んだ新聞記事に、昔の従軍カメラマンの記事が掲載されていた。
ベトナム戦争の初期まで活躍したとあったから、ロバート・キャパ達の次の世代の人なのかもしれない。
彼はある日、唐突に引退を表明する。
最後のメッセージはこうだ。
「死体の山を前に、美的構図を探している自分に嫌気がさした。」
報道をする、という意味で写真を考えた場合、必ずそのジレンマに突き当たる。
報道というのは「真実を伝える」事。
1.自分が伝えたいものを撮影する為に、撮影技術を用いてその瞬間を静止させる。
2.ただ、フォトグラファーの技術と視点を通してフィルタされたその瞬間は、すでにフォトグラファーというフィルタを介した瞬間である。
それは言葉でもそうだ。必ずフィルタはかかる。
だけど、映像の持つ力は悪魔的だ。
その瞬間がセンセーショナルであればあるほど、考える間を与えず、受け手の本能に肉薄する。
なぜなら、想像するというプロセスを経る文字情報と異なり、ダイレクトに視神経を刺激する映像は、真実としての装いが巧妙だからだ。
短期的に写真という媒体を、貨幣価値に換算した場合、高い付加価値を持つものは、センセーショナルでショッキングな映像だ。
ゴシップ、事故。
瞬発的に取引される、貨幣にも等しい圧倒的兌換性を持つ情報。
報道を経済活動として見ると、それが尊ばれるのは当然かもしれない。
ジロの死亡事故の時の映像を、写真家の砂田さんは「尊厳の問題」と評した。
価値があるとしても、個人の尊厳は守られるべきだと。
グランツールのような価値の高い市場の場合、フォトグラファーの数も多いし、競争も激しそうだ。
事故で苦痛にあえぐ選手の正面からシャッターを押す人達を見ていると、正直、あまり心地の良い感想は持てない。
今年の5月のツールド熊野。
アマチュアではあるが、プレスという立場で撮影する機会に恵まれた。
その時まで、僕は完全に自分の為だけに撮影していた。
自分が見たい映像を見る為には、自分で撮影するのが一番効率がいいからだ。
その時、初めて「人に伝える」という意識で撮影した。
自分が見たもの、自分の感情。
リザルトだけでは風化する皮膚感覚、ざらりとした触感。
そういったレースの現場特有のものを伝えられたらと思った。
レース後の選手達の様々な表情。
僕はレースを終えた時の選手達の表情は、レース全体を通しても、もっとも雄弁に内面を語っているように思えて、とても好きだ。
だけど、「伝える」事を意識した時、伝える事の道義的責任について悩む事も多い。
被写体は、その内面を知られたくないかもしれない。
それを無遠慮に暴くような行為は暴力かもしれない。
これって人を撮影する時に、常につきまとう「罪」の意識だ。
死や破壊はその究極の形態だが、ある意味、レースという極小の生存競争は、仮想的な「死と再生」なので、毎回、そのジレンマはつきまとう。
ただ、撮影している時は、それを感じる事は少ない。
熊野以前は、撮影していて、アドレナリンが出るような高揚を覚える事が多かったが、プレスという立場でファインダーを見ると、水のように客観的で、冷静な自分がいた。
だから悩みもない。
自分がそこにまるでいないかのような感覚。
葛藤は後から来る。
写真のセレクションをする段階で。
報道であるという事を踏まえると、自分がそれを公開する事は、常に自分に「人間の尊厳」を問い直させる。
だけど答えはないのだ。
短絡的なセンセーショナリズムかどうかは、時が解決するだろう。
短期的なセンセーショナルは兌換制の高い情報ではあるが、それはギャンブルに費やすコストと同じ。
なにかを生み出す事のない一時的愉悦だ。
葛藤の末に出す意味があると判断したもの、それは時を経過した時に、リザルトに残らない皮膚として、必ず意味を持つと信じている。
当然、その時の判断が間違う事もあるだろう。重要なのは、その間違いから学ぶ事だ。
自分の選択に間違いがあれば、それは自分が支払い義務をおうべき負の資産だ。自分で返済すれば良い。
写真を撮っていて怖いのは、自分の行いを顧みる事がなくなる事。
自分が正義だと思うと、必ず破綻をもたらす。
だけど、自分の行動の決定をしない場合、結局はなにも生み出す事は出来ない。
決定し、内省し、失敗から学ぶ。
人の価値観は多様だが、固定化された属性ではない。
変化しない事を選択した場合、自分の全てのエネルギーは、ゆっくりとした死にむかっていくんだろう。