2011年7月7日木曜日

Cheerers w/Love

スポーツを応援する。

特にスポーツ観戦に興味がなかった僕は、初めて映像で見たロードレースのシーンがとても印象的だった。

初めて映像で見たのはDVDの、2003年のツールだ。
特に印象に残ったのは、山岳ステージでの観客の熱狂ぶりだ。
スポーツを応援する、というよりも、なにか宗教儀式であるかのように、選手に併走し、足を踏みならし、拳を振り上げて叫ぶ。

競技内容はまったく分からなかったが、山を登る選手達の姿を見て、頭に浮かんだシーンは、


「ゴルゴダの丘を十字架を背負って登るイエス」



だった。

観客の常軌を逸したように見える熱狂は、重荷を背負い困難に挑む人間に対する原始的な本能なのかもしれない。
(極限状態に自らを置き、仮想的に死に近づき、そして復活するからだ)


多くの人は、最初は競技全体の空気に惹かれ、そして、いつしか、特定のチーム、選手のファンになっていく。

雰囲気という抽象的なイメージから、より感情移入しやすい具象集合へと関心が移るからだ。


特に日本国内では、ロードレースは決して恵まれた環境にあるスポーツとは言えない。

それ故、ファンの人々はこの競技、応援するチーム、個人に対する思い入れがとても強い。
そして、とても繊細で、応援する対象への批判、あるいは心ない発言にとても傷つきやすい。


僕はその繊細さがとても不思議だった。
そこまで想い入れて応援するのはなぜだろう?と。


最近になって、漠然と理解できた事がある。




プロ野球チームに阪神タイガースというチームがある。熱狂的なファンが多いチームだ。

ファンはそれぞれ強い思い入れを持っている。

85年に優勝した当時のファンは
「豪快に打撃で勝つスタイルが阪神の持ち味」
と語る。



90年代、最弱の時代のファンは
「ダメな子ほどかわいいのと一緒。強くなったら困る」
と語る。



2003年以降、常時Aクラス入りする強豪になった時代のファンは
「勝負にこだわり、投手力で決定するのが阪神の持ち味」
だと語るだろう。



そう、プロ野球球団というのは、固定された永続的な特徴があるわけではない。
時代時代の監督により戦略は異なり、ポリシーは異なり、選手により成績も、強みも弱みも変わる。

特徴というよりも、持ち味はその歴史だ。

ファンになったきっかけは、ファンの数ほどある。
きっかけはひとそれぞれ。千差万別だ。

時間が経過するにしたがって、応援するという行為は、ファンの生活の一部になる。

優勝した時に
恋人と別れた、あるいは結婚した。
独立した、仕事を失った。
子供が初めてしゃべった。子供が結婚した。

そのチームの歴史は、そのファンの人生とシンクロし、もやはきっかけは思い出せなくとも、それは自分に寄り添う人生の不可分なピースだ。

それが大切でなくてなんだろう?


野球に比べて自転車チームの寿命は短い。
運営母体は同じでも、ポリシーはかなり変更される。

だけど、きっかけはそれぞれとして、ファンになった事で、その人の人生と寄り添って存在するチーム。
自分が辛い時に、それを忘れさせる感動を与えてくれ、そして自分が幸せな時に、選手の不運に涙する。

だからこそ、それを批判される事は、自分の人生を否定される事に等しく感じるのかもしれない。

きっと批判する人も、それぞれの大事なピースの為に批判するのだろう。
それは大人げない行為ではあるが、愛情の表現の一つではある。


愛情を注ぐ対象がある、という事は、とても幸せな事だ。
それを表現する手段は一様に美しくないかもしれないが、僕はこう思うようにしている。

「誰もが愛しいものの為に生きて、言葉を語る。」

その言葉は自分には辛く、都合が悪いものかもしれない。

でも、どの表現も、愛から導き出されている。

人間の繊細な感情が分からない僕は、そういう風に、極端に感情を抽象化して考えるようにしている。




悪意が存在の基底にある人間はいない。

ありとあらゆる人の営み。
努力も精進も、軋轢も、中傷も、そして戦争も。

全ての営みの根底は何かに対する「愛」であり、そして自分の「愛」を誇示する競争なのだ。



YUKIYA ARASHIRO

IL DIAVOLO

THREE KINGS OF MOUNTAIN

Legacy

a Papa's Favorite.

Un trésor