2011年1月13日木曜日

GIFT

「才能」という意味を表す言葉のうち、”gift”は文字通り

「天賦の才」

を表します。

まさに天から授かった才能。生まれつきの資質
スポーツでも芸術でも、確かに「天賦の才」を持つ人は存在し、その人を間近に見ながら同じ事をしていると、理不尽な絶望を感じます。

彼ら、彼女らは、まるで、スタートレックのワープ航法のように、膨大な距離を一瞬で移動しているように見えます。

まるでプロセスなど存在せず、最初から解が頭の中に浮かぶかのように。

写真を撮るという行為は、経験、知識ももちろん重要なのですが、そもそも撮り始めた時から目を引く写真を撮る人というのはいて、やはりgiftは存在します。

というより、絵画や音楽は基礎技術と基礎知識は絶対に必要ですが、写真は基本、

「シャッターを押すだけ」

なので、圧倒的に敷居が低い。

なにかを表現する手段として、これほど入り口が広いものもないでしょう。

つまり、入り口が広いだけに、giftが明確になるように見えます。


でも、数学と違い、表現の分野では正解がありません。
つまり、そのgiftは、

「数多あるパスの中で、高い品質に到達できる才能」

なんです。

絶対評価が出来ないので、それは「標準よりも高い品質を有する」という相対評価でしかない。


でも、それは「相対的な高品質」でしかないだけに怖いgiftです。

なぜなら、常に自分を客観視できないと、与えられたgift以上には進めないからです。



写真を始めたのがレースの写真だったので、2009年末まで、ほとんど自転車レースの写真ばかり撮影していました。

自分が好きな自転車レースを撮影できるのが、ただひたすら嬉しくて、また人に評価されるのが嬉しくて、レース以外を撮影する事はありませんでした。

たとえば、「花」や「風景」は、写真の定番ですが、まったく興味は湧かず、酷い話ですが、「隠居した老人の嗜み」ぐらいに思っていました。


2010年2月。友人のお母さんが他界され、衝動的に、その手向けに花の写真を撮ろう、と思い立ちました。

植物園で咲いていた紅梅。


[February]  in memories of..(take-2)


改めて花を花として見てみると、いろいろ気づく事が多いです。

・当然だけど動かない。
・被写体が動かないから、こちらが動く。構図を作る。
・レースでは基本、入力がきてシャッターを押す「受動」。しかし、花の場合、こちらから出力して構図、露出を構築する「能動」
・始めて考える。「構図とは?」「自分の求める露出とは?」(適正露出ではない)


この年の春、膨大な数の花を撮影したのですが、レースでは思いもよらなかった様々な考え方が出来て、とても興味深かったです。




on the Edge of Purgatory 6


そして、そこで模索した事は、またレースの写真にフィードバックされる。

2010年春以降のレースの写真は、あきらかに構図を意識し、露出を意識しています。


レースの写真が受動である事には変わりはない。

でも、その短い時間で模索した結果は、反射として表に出す事が出来る。

まったく無駄だと思っていたピースが、思いもかけず、自分の本筋を補完する結果になりました。


これは「無駄も役に立つ」という教訓ではありません。

自分が進んでいる道がゴールがなく、常に模索の連続であるなら、

「今ある道の延長」

だけでなく、

「ノイズのように思えるランダムな結果」

から、道を見つけ、それを真剣に考える事はとても重要だと思います。


たとえば、生物の進化の歴史。

これは常に環境適応型の正常進化ばかりではありません。
環境に適応しすぎた種は、環境ゆえに滅びます。

時々発生する「突然変異」

それが異端であっても、そのノイズが生命全体にパラダイムシフトを起こす触媒になっています。


その突然変異の種を見つけ、それを徹底的に検証する事。

それが一番大事な事だと思います。


だから、もし「天才」という称号を与えられる人がいるなら、
その人はとても不幸かもしれない。

giftで上げられた高みまでしか行けず、その位置が高ければ高いほど、自分を見つめ直す根拠がない。

泥臭くても、地をはうような姿勢をしていても、

自分の目と耳と頭で、一つ一つの土塊を判断したいし、その姿勢は忘れたくないと思います。

格好悪い事を恐れていてはいけないんですね。


CHISAKO HARIGAI   :Cyclo Lovers Rock-13 : on the Edge

2011年1月10日月曜日

Message in a Bottle

著名人にサインをもらいたいと思った事はありませんでした。



元々、サインというものが何を意味するのかも分からず、漠然と

「著名人と会った記録」

みたいなものかな、と思っていました。



日本の景勝地に時々ある記念スタンプみたいな印象ですね。

最近になって理解したのですが、それって写真と同じですよね。

「その人を記録する」

そう考えると、僕がサインを欲しいと思わないのは、写真を撮るからだと思います。


8日に、昨年お世話になった知人と食事をしました。

僕が昨年末に個人的に制作したロードレースの写真集を持ってきて頂きました。

彼女はいくつかのレースやイベントで、その本に記載されている選手に、それぞれのページにサインをもらっていたので、それを見せてもらうためです。

それぞれの方のサインを見て、不思議な感慨がわきました。



以前書いたように、自分にとって、「肖像写真」というのは

「その人に向けての自分の手紙」

に等しいものです。



今、自分が向けた手紙をいろんな人が見て、それにサインをしている。



サインをもらった時の様子を、知人がいろいろ教えてくれます。



「えっ、なにこれ!めっちゃ欲しい!」


「私、ちゃんとしたサインがないんでちょっと恥ずかしいんですw」


「えっ、これどこ?どこで撮ったの?」





驚かれながらも、喜んでサインをして下さったとの事。

そうですね。それは手紙に対する返信みたいなものです。


人に気持ちを伝えるのに、様々な手段があるけど、やはり、「形」のある手段は説得力を持つし、それに長い時間にわたって残る。


知人に写真集を差し上げた時、

「サインもらおうかな?でもサイン帳じゃないから失礼ですよね?」

と彼女は言っていたのですが、今になって思うと、この写真集は、実は、サインが入った状態で完成と言えるのかもしれないですね。


様々な筆跡の返信の束をテーブルに置いて、ファインダーで見つめながら、そんな事を考えていました。

IMG_0025


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2011年1月7日金曜日

Portrait of Women(st-1)

昨年、Ustreamで、友人によって行われたインタビューのテーマは

「女性の肖像」

でした。

その時の内容

1.女性の肖像写真を撮影するのは苦手。

2.なぜなら、男性である自分は、男性に対してより、女性に対して踏み込む事が出
        来ない(=より大胆なエフェクトを加える事が出来ない)

3.なぜ、踏み込めないか? という議論には、放送中は結論が出ず。

4.教育の問題、倫理観、いろいろ上げられたが、後日、インタビュアーとの雑談の中で、
        「女性は輪郭が丸いから、シャープなエフェクトが加えられないのでは?」
        との意見が出て、方法論だけの問題との結論。


5.女性の美しさ、というのは何か?

        →造形的問題だけではない
        →華道では、綺麗なだけでは「美」ではない。清濁併せ持つものが「美」
        →なぜそれが「美」か?
        →清濁併せ持つ事が、生物としての多様性を表し、
        「生命としての強さ」=「原始的なアピール」
        につながっているのではないか?

という事でした。



レースの写真の撮影を始めた2008年末から、2009年12月ぐらいまで、女性を撮影する事はほとんどなく、被写体はほぼ男性ばかりでした。

その当時は無意識でしたが、今理由を考えてみると

1.まず、女性カテゴリーのレースが関東以外では少ない。

2.女性アスリートを撮影する行為は、その当時、世間ではビーチバレーの選手に対        しての無遠慮な撮影が問題になったように、なにか後ろめたさを感じる。

という事だと推測します。

その時まで、NOT LOVEに登場した女性は、わずか3名。

ただ、2009年の全日本シクロクロス選手権(金沢)で状況が一変します。
始めて見た女性カテゴリーのレースで、しかもシクロクロス。

シクロクロスは、ライダー自体にフォーカスしたい僕にとってはうってつけの種目です。

・自転車レースなのに、自転車に乗らない区間がある
・低速でより接近しやすい


金沢は泥のレースで、泥まみれになりながら、前を見つめて戦う女性の姿は本当に美しく、NOT LOVE 2009の全体の約40%が全日本シクロで、その中の65%近くが女性です。このレースを境に、被写体としての女性が急増します。

AYAKO TOYOOKA :piano forte


NOZOMI NAKAMICHI: Pietà

Die Brünhild mit Schlamm

MASAMI MORITA :Presto

CHIKA FUKUMOTO :Presto


この時点では、確かに、まだ女性を撮影する事に対して遠慮はあるのですが、始めて被写体としての女性を認識し、とても惹かれている時です。


なぜ、その姿を美しいと思ったのか?


アスリートが持つ美の一つには、当然


「突き詰めた強さ」


というものがあります。
アスリートとしての男性と女性を見比べると、面白い事に、女性の方が、その「強さ」が剥き出しで、認識しやすいんです。

アスリートとしての男性は、なぜか「儚い」部分をどうしても感じるのですが、
アスリートしての女性は、「生命としての強さ」を痛感します。


それがなぜか、今はよく分かりません。

少し考えてみる為に、この話は、次回へ続きます。


(to be continued)

MASAMI MORITA :Le Blanc Suprême-7

2011年1月6日木曜日

Expression

人の表情はとてもデリケートなものです。


特にファインダーで見ている人の表情。
レースではなく、正面から人を撮影した時、その表情の移ろいは、自分との距離感でもあり、とても捕らえるのが難しい。

手のひらに落ちた淡雪みたいに、1秒の時間が長く感じます。

2010年のシマノ鈴鹿ロードで、あるチームの撮影をさせて頂いた際、チームの方から

「どんどん指示して撮ってください!」

と言われたのですが、その時になって、人を正面から撮影する事の難しさ、恐ろしさを痛感しました。

その時まで、人物の写真を撮り、それに自分の印象を乗せてレタッチする事に、なんら躊躇いがなく、自分も目標に誘導する事は普通だと思っていました。

ただ、正面から写真を撮る時、視線やポーズを要求するのは出来ませんでした。

もしかしたら、それは正面切っては自分の意見が言えないような卑怯な感情なのかもしれません。

その時は分からなかったのですが、いろいろあった今になって考えてみると、

<レタッチしている時>
その人が発散した熱量、その印象を忠実に再現する為に、光学的表現では再現できなかった側面を表現しようとしている。

という事だと思っています。

つまり、その人物の印象を表現する手段としてレタッチがあり、その時には自分の主観要素が全面に出てもいいが、撮影時に、その人の意図と違う要素をノイズとして入れたくない。

たとえば、相手に、ある動作を要求した場合、それは相手の自由意志ではなく、表情は死んでしまう気がするんです。

職業的被写体の場合、要求により表情を作るスキルがあるのですが、それは僕が求めているポートレイトとは違います。

でも、興味深いのは、指示をしなくても、自分の存在を消す、というのとは違うんです。

初対面であっても相手に信頼されなければならず、その為には自分を偽ってはならない。
そして、会話の流れ、時間の流れの中で、表情は常に移ろいゆく。

その時、その人の表情がどのように移ろうのか見つめているのは、とても刺激的な経験だし、レース自体を撮影しているよりも、はるかに緊張感を伴い、半分呼吸する事も忘れている事が多い。


人の表情がとても興味深いと感じたのは、シマノ鈴鹿ロード2009のポディウムに立つ別府史之選手を撮影した時です。


その時は、まだ写真を始めたばかりで、自分がどういう写真を撮りたいのかも分かっておらず、あまり写真を撮る意味を見いだせていませんでした。


別府史之選手はその年のツールドフランスに出走され、シャンゼリゼ・ステージで敢闘賞を獲得。その凱旋レースでした。

別府史之選手を実際に見たのはこの時の鈴鹿が始めてです。

それまで写真を見た印象では、柔らかい印象の、穏やかそうな、優しそうな青年、という印象でした。


でも、ポディウムで見た時、それまでの写真で見た印象とはまったく違い、強い意志を持った、ある意味、「揺るぎのない」表情だと感じました。

長い欧州生活で培ったものなのか、あるいはツールでの経験で、なんらかのブレイクスルーがあったのか。


ファインダーで見ている彼の表情は、随時変化し、確かに、それまで見た事のある表情も多いのですが、全ての表情の底には、やはり強い意志が垣間見え、そして、その時、最後に撮影した表情は今までにまったく見た事のなかった表情でした。


<撮影時のオリジナルjpeg>
FUMIYUKI BEPPU



特に気負っているわけでも、劇的な表情でもなく、とてもニュートラルな表情なのですが、彼が通過してきた道や葛藤みたいなものが垣間見えるような気がします。
ちょうどモナ・リザの肖像のように、見る人により、また見る人の気分により、いろんな見方のある表情です。


その時に感じた印象をずっと反芻していて、半年後にモノクロームにしたもの。

<モノクローム変換>


FUMIYUKI BEPPU  :Le Blanc Suprême-45


印象は「経験と成長」だったので、陰影はどちらかというときつく、汚れのように。
これは、僕がその時にもった印象そのものです。



人によっては、これは罪深い愚行と写るかもしれません。
でも、その時にファインダーで見ていた印象は、まさに色が抜けた音のない世界のようでした。



その時も、今でも、別府史之さんとは言葉を交わしてはいません。
今自分が追求している「相手と対面し、その印象を記録する」というテーマ以前の撮影です。

自分が会話して、そして作り上げた関係はそこには投影されていません。
だけど、それは要求した表情でもない。

表情は一期一会の物で、今は当時より、技術的にも人間的にも成長していると思いたいのですが、同じ表情は絶対に撮れないと思います。


人の表情は、本当に多くの情報の宝庫です。そして、それは受け手の数だけ正解がある。


ずっとこの写真はご本人に渡したいと思っていて、念願かなって友人の協力により、昨年のサイクルモード大阪でお渡しする事が出来ました。
(僕は交通事故の影響で行けませんでした)


自分からの直球の手紙でしたが、とても喜んでくださったそうで、終了後、Twitterで

“Special Thanks to You!”

のメッセージを頂いた時は、ずっと、自分が葛藤していきた事が一つ完結した気がして、とても救われた気持ちでした。


僕が人の表情の写真、というのに真剣に取り組もうと思った原点のショットでもあり、とてもニュートラルな表情なので、その時の自分の心情を表現するのに、たぶん、この先も挑戦し続ける題材だと思います。

迷った時には見返して、自分の原点を確認しています。

原点だけど線分上の通過点ではない、

ある意味、この時だけ撮れた到達点でもあります。

FUMIYUKI BEPPU :Adagio :take-2

Separate Ways

2010年シーズンで、競技生活にピリオドを打たれた方は、僕の知る限りでもとても多かったです。
本格的に国内のロード競技を見だしたのは2009年からなので、普段がどれぐらいかは把握していないのですが、キャリアを全うされた方よりも、20代前半や10代の、かなり若い方がキャリアの転換を表明されたのに驚きました。

引退を表明されるアスリートの心理がどのようなものかは想像も難しいのですが、新しく選択されたそれぞれの道で、それぞれの納得のいく人生を歩まれる事を祈っています。




プロアスリートの世界、移籍、引退は当然で、それは知識としては頭の中に入っていました。

でも、短い観戦歴の中で、撮影し、写真をお渡しする機会があり、言葉を交わしてきた人が、その競技から去るのは、陳腐な表現ではありますが、「寂しい」と言わざる終えません。

ロード競技はとても選手とファンとの敷居が低く、コミュニケーションを取りやすいのが特徴です。

それもあり、ファンの皆さんは、この競技に対してファナティックともいえる忠誠心を示し、

「観戦する」

という受動的姿勢よりも、

「自分たちで作り上げる」

という能動的姿勢が強いように思えます。

だから、新しい道を行く選手には、惜しみない声援と努力で送りだそうとするんですね。





引退を表明されたある選手に、全日本シクロの会場でお会いする機会がありました。

全日本ロードの時の写真をそれ以前に送っていて、お話を聞くのはそれが始めてでした。


「他に僕の写真はありませんか?やっぱりないですよね?」


その言葉は、社交辞令ではなく、本当に彼が心から、自分のレースの写真を欲している事が分かる響きを持っていました。

帰ってからライブラリを探し、全日本ロード内で8ショットを発見し、お渡しする事が出来ました。


その時に思い出しました。

以前に、アスリートの方にとって、写真が重要な意味を持つと思った事を。


自分が、例え短い間でも、全身全霊で打ち込んだ対象が、それが自分の記憶だけではとても辛い。

「証」が「形」として残る事はとても重要な事です。

もしかしたら、すごく辛い時期に、自分が戦っていた姿を見て、なにか思い出すからもしれない。

もしかしたら、将来の自分の家族に、その姿を見せる事になるかもしれない。

その時、自分はなにを考えていたのか?

なにと戦っていたのか?



報道として全体を伝える写真ではなく、本人の皮膚感覚をトレースするかのごとく寄る写真にも、そこにだけは価値があるのかもしれません。

他の人が見ても分からない、本人だけが思い出すなにか。



選手として退かれても、なお、別の形でレースの現場に残るひと。

そして、まったく新しい道を行くひと。


タイムカプセルに入れる手紙のように、何年か、何十年か先に、写真を見て、なにか思うところがその人にあったら、それはフォトグラファーとしてとても幸せな事です。







Good friends we have, oh, good friends we've lost
Along the way
In this great future you can't forget your past
So dry your tears, I say

俺たちの大事な友達、もう失ってしまったけど

生きている間はそんな事もある。
これから素晴らしい未来が君を待っているけど、過去を忘れてはいけないよ。
だから涙をふいて。


No, Woman, No Cry (Bob Marley And The Wailers)

Life is Just a Dream, You know. : Blue

MAKOTO IIJIMA :con fuoco

YOSHINORI IINO :molto Allegro

MAKOTO SHIMADA : animando

TAKUMI BEPPU: Inferno!!

HATSUNA SHIMOKUBO : adagio

CHIHIRO MATSUDA :grazioso

2011年1月3日月曜日

Expression

人の表情はとてもデリケートなものです。


特にファインダーで見ている人の表情。
レースではなく、正面から人を撮影した時、その表情の移ろいは、自分との距離感でもあり、とても捕らえるのが難しい。

手のひらに落ちた淡雪みたいに、1秒の時間が長く感じます。

2010年のシマノ鈴鹿ロードで、あるチームの撮影をさせて頂いた際、チームの方から

「どんどん指示して撮ってください!」

と言われたのですが、その時になって、人を正面から撮影する事の難しさ、恐ろしさを痛感しました。

その時まで、人物の写真を撮り、それに自分の印象を乗せてレタッチする事に、なんら躊躇いがなく、自分も目標に誘導する事は普通だと思っていました。

ただ、正面から写真を撮る時、視線やポーズを要求するのは出来ませんでした。

もしかしたら、それは正面切っては自分の意見が言えないような卑怯な感情なのかもしれません。

その時は分からなかったのですが、いろいろあった今になって考えてみると、

<レタッチしている時>
その人が発散した熱量、その印象を忠実に再現する為に、光学的表現では再現できなかった側面を表現しようとしている。

という事だと思っています。

つまり、その人物の印象を表現する手段としてレタッチがあり、その時には自分の主観要素が全面に出てもいいが、撮影時に、その人の意図と違う要素をノイズとして入れたくない。

たとえば、相手に、ある動作を要求した場合、それは相手の自由意志ではなく、表情は死んでしまう気がするんです。

職業的被写体の場合、要求により表情を作るスキルがあるのですが、それは僕が求めているポートレイトとは違います。

でも、興味深いのは、指示をしなくても、自分の存在を消す、というのとは違うんです。

初対面であっても相手に信頼されなければならず、その為には自分を偽ってはならない。
そして、会話の流れ、時間の流れの中で、表情は常に移ろいゆく。

その時、その人の表情がどのように移ろうのか見つめているのは、とても刺激的な経験だし、レース自体を撮影しているよりも、はるかに緊張感を伴い、半分呼吸する事も忘れている事が多い。


人の表情がとても興味深いと感じたのは、シマノ鈴鹿ロード2009のポディウムに立つ別府史之選手を撮影した時です。


その時は、まだ写真を始めたばかりで、自分がどういう写真を撮りたいのかも分かっておらず、あまり写真を撮る意味を見いだせていませんでした。


別府史之選手はその年のツールドフランスに出走され、シャンゼリゼ・ステージで敢闘賞を獲得。その凱旋レースでした。

別府史之選手を実際に見たのはこの時の鈴鹿が始めてです。

それまで写真を見た印象では、柔らかい印象の、穏やかそうな、優しそうな青年、という印象でした。


でも、ポディウムで見た時、それまでの写真で見た印象とはまったく違い、強い意志を持った、ある意味、「揺るぎのない」表情だと感じました。

長い欧州生活で培ったものなのか、あるいはツールでの経験で、なんらかのブレイクスルーがあったのか。


ファインダーで見ている彼の表情は、随時変化し、確かに、それまで見た事のある表情も多いのですが、全ての表情の底には、やはり強い意志が垣間見え、そして、その時、最後に撮影した表情は今までにまったく見た事のなかった表情でした。


<撮影時のオリジナルjpeg>

FUMIYUKI BEPPU


特に気負っているわけでも、劇的な表情でもなく、とてもニュートラルな表情なのですが、彼が通過してきた道や葛藤みたいなものが垣間見えるような気がします。
ちょうどモナ・リザの肖像のように、見る人により、また見る人の気分により、いろんな見方のある表情です。


その時に感じた印象をずっと反芻していて、半年後にモノクロームにしたもの。

<モノクローム変換>


FUMIYUKI BEPPU  :Le Blanc Suprême-45


印象は「経験と成長」だったので、陰影はどちらかというときつく、汚れのように。
これは、僕がその時にもった印象そのものです。



人によっては、これは罪深い愚行と写るかもしれません。
でも、その時にファインダーで見ていた印象は、まさに色が抜けた音のない世界のようでした。



その時も、今でも、別府史之さんとは言葉を交わしてはいません。
今自分が追求している「相手と対面し、その印象を記録する」というテーマ以前の撮影です。

自分が会話して、そして作り上げた関係はそこには投影されていません。
だけど、それは要求した表情でもない。

表情は一期一会の物で、今は当時より、技術的にも人間的にも成長していると思いたいのですが、同じ表情は絶対に撮れないと思います。


人の表情は、本当に多くの情報の宝庫です。そして、それは受け手の数だけ正解がある。


ずっとこの写真はご本人に渡したいと思っていて、念願かなって友人の協力により、昨年のサイクルモード大阪でお渡しする事が出来ました。
(僕は交通事故の影響で行けませんでした)


自分からの直球の手紙でしたが、とても喜んでくださったそうで、終了後、Twitterで

“Special Thanks to You!”

のメッセージを頂いた時は、ずっと、自分が葛藤していきた事が一つ完結した気がして、とても救われた気持ちでした。


僕が人の表情の写真、というのに真剣に取り組もうと思った原点のショットでもあり、とてもニュートラルな表情なので、その時の自分の心情を表現するのに、たぶん、この先も挑戦し続ける題材だと思います。

迷った時には見返して、自分の原点を確認しています。

原点だけど線分上の通過点ではない、

ある意味、この時だけ撮れた到達点でもあります。



FUMIYUKI BEPPU :Adagio :take-2

2011年1月1日土曜日

RECORDS

TOJ2010伊豆ステージの終了後、

各チームのテントを巡って、レース後の選手の表情を撮影していました。

翌日は最終の東京ステージ、しかも内容がクリテリウムとあって、総合の大勢はほぼ決定しており、多くの選手の表情は、どちらかというと穏やかな印象でした。

ただ、TEAM NIPPOのテントだけは違っていました。

宮澤崇史選手は、このステージでのチームの方針に納得がいかない様子で、激高し、監督に激しく意見していました。

その発散される熱量はすさまじく、誰も周りに近づけない状態でした。

僕はその熱量に威圧されながら、でも、その表情に魅入られたようにシャッターを押し続けました。


TAKASHI MIYAZAWA   : Le Blanc Suprême-86


帰宅し、Flickrに選択データをアップロードした後、宮澤さんの激高されている場面を撮影した事について、かなり悩んでいました。


僕の中で、宮澤選手のイメージは、真のプロフェッショナル。

それは、職人的な意味合いではなく、「魅せる」事も視野に入れた、真のプロアスリートの姿だと思っています。



そんな宮澤選手が、激高した姿をファンに見せたいと思うだろうか?



それは絶対にない。

彼の中では、おそらく厳密なセルフイメージがあり、それを崩したいとは思わないはずです。

僕が報道関係者だったら、このシーンを撮影する事はなかったと思います。

それは選手との阿吽の呼吸であり、そのルールを守る事によって信頼関係を築くものだから。

では、なぜ、僕は撮影したのか?そしてFlickrに公開したのか?




パパラッチのように「ピーピング・フォト(のぞきみ写真)」に価値を見いだしている。




その疑念がずっと頭にあり、TOJの後かなり引きずっていました。


ただ、僕が断言できるのは、僕がこのシーンを撮影したのは、

「美しい」

と思ったからです。

「怒る」

という行動は、とてもエネルギーのいる行為です。
生活していて、本当の意味で怒る事って、ほとんどありません。
多くの場合、怒るより説得した方が効率的だし、エネルギーの損失もない。

だから、激高する宮澤選手を見て、そこまでの(ある意味常軌を逸する)熱意を、「勝負」というものに傾けているんだ、と痛感しました。




宮澤選手にとって、そのステージは、
「消費した通過点」
ではなく、
「勝てる可能性をみすみす放棄した失態」
だったのです。





でも、写真には

「激高している状態」

だけが記録される。それをどう受け取るかは、受け手次第。

考えているうちに、どんどん深みにはまってしまい、かなり苦しくなったので、弱気になっていた事もあり、観戦歴の長い知人に相談しました。

知人の回答

「確かに報道で使われる写真ではないけど、これも記録だと思う。」


「写真には日付が残るでしょう?それが公開されている事は、後になってきっと価値がある事だと思う。」


「宮澤さんは、この時、どんな気持ちで怒っていたんだろうね?って、きっと後から誰かが思う。それだけでも、記録の少ないロードレースにとっては意味がある。」


その時までずっと忘れていたんですが、写真の基本特性は

「記録を保管する」

事だったんですね。

時間を静止させ、日時を記録し、今では場所まで記録できる。

その時まで、自分にとって写真を記録として思った事はなく、絵筆とか万年筆みたいな感覚でした。


僕の写真は「アート的」と評される事が多く、撮影した写真はその「素材」と見なされる事が多い。

でも、たとえ「素材」であっても、その「素材」が

「本質的に記録特性を持った写真」

である事には変わりがなく、見る人に対して、なんらかの記憶の媒介になるという点では、報道の写真と同質なのかもしれません。



後に、あるサイクリストが、僕が撮影した本人の写真を見て



「その時に考えていた事を、ありありと思い出した」



と評されたのも、その結果なんでしょう。

報道の写真は、レースの流れや時間軸を記録し、僕の写真は、もっと皮膚に近い、痛みや、迷いといった感覚を記録しているのかもしれません。


自分が100%邪心なしでその写真をとったのかは、正直、今でも自信がありません。

でも、その話を聞いた時に、なんで自分がレースの写真を撮影して、記録し、残すのか、少し理解できたような気がします。




最初は自尊心から。

次第にいろんなサイクリストと接するようになり、彼ら彼女らの生きている世界を見て、



「サイクリスト達が情熱を傾けている姿を記録し残したい」



という気持ちに変容していったんだと思います。

仕事で建物や、ソフトウェアを設計したら、それは見える形で残ります。

でも、ロードレースの場合、あれほど過酷な状況で戦っているのに、記録に残る事ってとても少ない。

それって恐怖だと思うんです。




僕が自転車に競技として乗る事に関心を示さないのも、



「自分はアスリートではなく、記録し、サポートする立場」



という厳密な線引きがあるからだと思います。




興味がある対象に、主体として関わりたいと思うのは、人の自然な欲求です。

アスリートや天才的な才能を持つ人々は素晴らしいけど、特殊な才能のある人だけStand Aloneで存在している訳ではない。

それをサポートする人、応援するファン、全てがユニゾンになって系(system)が構成される。

そう考えたら、初めて、自分の立場に、少し自信を持つ事ができました。

葛藤し、悩んで進む事は、アスリートもフォトグラファーも同じ。




肖像写真は、本質的に「罪」である事には変わらないけど、、自分の立ち位置を見失わなければ、もうちょっと続ける事はできそうな気がします。


僕は元々とてもメンタルの強い人間だと思っていたのですが、写真を始めてから、いろんな弱点が剥き出しになり、びっくりするほどセンシディブな反応に驚く事も多いです(笑)

どうしても自分で消化しきれず、アームストロングの誠実さと同数しかいない希少な友人に話す事もあります。



ただ、それは逃げているのではなく、自分の中の考えを昇華させるストレッチだと思うんです。(往々にして言葉が足らないのですが(笑))




今度、あなたに、そういう機会があれば、身の不運だと諦めて、そのストレッチに付き合っていただけると、とても嬉しいです(笑)


Happy New Year.