Well, this time tomorrow where will we be?
あしたはぼくたちどこにいるんだろうね
On a spaceship somewhere sailing across any empty sea
あるはずのない海をわたる宇宙船に乗ってさ
Well, this time tomorrow, where will we be?
あしたはぼくたちどうなってるんだろうね
This time tomorrow what will we see?
明日はどんな世界になるんだろう
This time tomorrow
あしたはあしたの風が吹くってさ
“This Time Tomorrow” Words & Music by Ray Davies. The Kinks
ウェス・アンダーソン監督映画「ダージリン急行」の劇中歌として流れたこの曲は、ロードレース、とくにステージレースの魅力を端的に表していると思います。
スポーツでありながら旅、旅でありながらスポーツ、時には旅の仲間、時には敵。競技しながら食べ、排泄(失敬)し、休み、泣き、怒り、笑い。白黒はっきりさせたいデジタルな世の中で、これほどグレーでアナログの極みともいえるお祭り騒ぎのスポーツは唯一無二。沿道の観客はなにもない国道に何時間も待ち続けたあげく、プロトンは陽炎のように一瞬で通り過ぎる。その瞬間が過ぎると観客は椅子をたたみ、談笑して去って行く。陽炎は二度と戻らない。同じ場所には止まらない。プロトンは根を生やさない。あしたはあしたの風が吹く。
友達のまひろさんが、あれやこれやあってツールにIAMチームのお抱え絵師として渡仏したのが2015年。いや、今2024年っす。実質10年前!!この事実がまず陽炎のよう。この時、英語が苦手なまひろさんのサポートとしてチームとの手紙やメッセージの翻訳補助をしていたのがこの私でした。その時の有能執事っぷりからSNSでつけられた二つ名が「キグスチャン」。
キグスチャンの朝はまひろお嬢様の涙ながらのヘルプメールを読むことから始まる。ダージリンティーを飲みながら、お嬢様が選手へ伝えたいこと、チームへの質問、推しへの赤裸々メッセージを淡々と翻訳していくキグスチャン。あの2週間はそんな風に過ぎていきました。なので、日本でメッセージを読んでいただけのこのキグスチャンですらも、街道の喧噪、パヴェの砂埃、チームカーの中の気まずい沈黙の後のジョジョネタの雰囲気を感じることができました。これはテレビ中継ではけっして流れてこない情報で、音楽がデジタル化されたことで消されてしまったアナログレコードのノイズのようなもの。でもビル・エヴァンスのアナログレコードが、今でも1961年のヴィレッジバンガードの紫煙と観客の談笑を伝えてくれるように、この時のメッセージのやり取りと、送られてくる写真達は「裸のツールドフランス」を送り届けてくれました。パッケージされていない、無加工の、そして庶民のお祭りとしての空気。
写真と短いコメントのみのこの「ウスイホン」はとても饒舌にそのアナログ情報を伝えています。特に素晴らしいのはIAMチームのスタッフ達の表情。2週間という短い間であっても、まひろさんがゲストではなく、同士として共に旅していたのが感じられます。特に素敵なのがP33のバケツ風呂。地球温暖化の影響で近年のツールは熱波に襲われ、選手はアイシングのためにもレース後に氷入りのバケツ風呂に入ります。その姿もユーモラスでいいのですが、映像担当のイギリス人デイビットが、カメラを構えながらバケツ入浴中の選手と話している様子が本当に素晴らしい。チームとしての映像商材はもちろん選手なのですが、メカニックもスタッフも、みんな「旅の仲間」なんだなぁと感じられグッときます。2024年現在ならではの感傷も。P28でチームバスの前に立つベラルーシ人のアレックス。ウクライナでの戦争が3年目を迎えている今、彼の胸中は今どんなものなのでしょう?
2015年から2024年にかけて、世界は激変しました。
パンデミック、人種間闘争、宗教対立、そして現実の戦争。IAMのスタッフ達、沿道でまひろさんに笑顔で手を振っていたおっさん達、選手達。彼、彼女らを取り巻く状況も大きく変わっている事でしょう。こんなに大きな苦難と苦痛が世界に横たわっている現在、コスパ、タイパ最悪の巨大移動遊園地ツール・ド・フランスは何を残せるのでしょうか?
巨大な建物や橋も残さない。通りすぎた後には何も残らない。名も知らぬ観客、沿道の住民を置き去りにして走り続けるダージリン急行。でも、ペダルの一漕ぎ、ギアの一回転、捨て去ったエナジーバー、ボトル。その全てを積み上げていった先にシャンゼリゼに辿り着く。どんな才能、教養、名声、資産があってもペダルを踏むのを止めたら辿り着けない。オランダのユトレヒトで生まれフランスのパリで死ぬ。なんかそれも人生みたい。意味があるかどうかは分からない。でも心臓が動いている限り明日は来て、今日より少し先に進んでいる。覚えきれないぐらいの人々の顔が現れては消え、ゲップが出そうな急勾配の山々をよじ登り、雑用をしたり、怒られたり、落車で怪我をしたり。蜃気楼のような一瞬一瞬を燃料にして、またペダルを踏み込む。すでに足は棒のように重くて硬い。けれども、残りの人生の中では、今の自分の脚は最もフレッシュだ。
まひろさんの写真を通して見るツールは、勝ち負けの底に横たわる人の縁や無常を感じられて、なので僕にとってはとてもエモく、そして儚く大切に感じられます。
写真は「適切な時、適切な場所に本人が立っていないと成立しない芸術」だと思います。
作品の土台となるのは能書きでも技術でも教養でもなく、そのひとの脚なのです。
当時、Twitterでこんなポストを拝見しました。
ちょっとイラスト書いてチームパス貰えるんだからいいよな
なぜこの方はツールの地に立っていないのでしょう?適切な時に望んだ場所にいないのでしょう?
理由は何千、何万もあるでしょう。人の背負う荷物は様々です。
でも、写真ってそういうものです。数多の理由を置き去りにして、その日、その場所に立っているものだけが切り取れる蜃気楼。
このウスイホンがツール・ド・フランスを好きなひとに新たな扉を開きますように。
2024/06/11 キグスチャン(@kiguma)