「華を持つ人」
の話題になりました。
・ここぞ、というポイントで結果を出す。
・常時結果を出す訳ではない。絶対にここは外せない、というポイントでだけ、結果を出す。
絶対に人に負けないポイントを持っていて、そのポイント以外では冴えないけど、ツボにはまった時には鬼神の強さを発揮する。
ツボにはまった時と、外れた時の落差が大きければ大きい程、人はその人に魅力を感じる。
もちろん、強さを発揮する領域を得る為には、努力も才能も絶対必要ですが、そのツボをかぎ分ける才能は「嗅覚」としか表現出来ないもので、それはかなり先天的な資質だと思われます。
以前のエントリーで「天賦の才」について話をしました。その才能を持つ人達は、
・先天的に対象の資質がある。
のではなく
・先天的に、対象の流れの中で「ポイント」を見抜く嗅覚がある。
と言い換える事が可能かもしれません。
でも、以前にも話した通り、先天的資質で高レベルに到達した人というのは、自分の立ち位置を見失いがちです。
スポーツでも、勉強でも、仕事でも、芸術でも、
その世界の中での自分の立ち位置が分かれば、壁も見えて、自分になにが足りないのか、なにを努力すればいいのか、が分かる。
でも、その世界の高さを低くしか見られなかった場合、世界は自分の足下にあり、出来る努力は「自分の立場を維持する事」だけに思えて空しくなる。
若くして人気を得て成功したアスリートや、役者、芸術家の多くが、その後の成長を待たずに表舞台から消える事が多いのは、その為だと考えます。
ボクシングを描いた漫画作品の中で、こういう台詞がありました。
厳しい練習というのは、科学的な効率だけで行っているんじゃない。
どんなロジックも消し飛ぶ苦境というのは、リングの中では絶対にある。
その絶対の苦境の中、最後に自分を支えるのは「自信」だ。
厳しい練習を積み重ねてきた、という「自信の厚み」が、逆境の中で最後に拳を支える力になるんだ。
結局、全ての努力も、科学も、効率も、その「自信」を裏付け、厚みをつける為だけに存在します。
若くして大成した場合、自信は出来るけど、その自信には根拠がない。
あるのは、漠然とした「嗅覚」という感覚だけ。
それをどのような逆境でも、立場でも研ぎ澄ますには、結局、時間をかけた練習しかない。
でも、自分の前に「壁」が見えないと、その膨大な労力を傾注する裏付けにならない。
アスリートの場合は、それがより高い次元(全日本レベルであり、全世界レベル)であり、芸術家の場合は、より高い次元の自己の研鑽だったりするのでしょう。
プロアスリートの一番大事な仕事は、
「壁に挑む姿を世間に示す」
事だと思います。
もし、スポーツ観戦が、ただのコロッセオでの享楽の提供から進歩がないのであれば、現代にはプロアスリートは死滅しているはず。
単なる闘争本能の代替行為ではない。
逆境にあって、挑み、そこで自分を磨く姿に、人々が、畏怖と尊敬の念を抱くからです。
だから、僕はロードレースやシクロクロスを観戦している人は、観戦しない多くの人よりも、ずっと学んでいる事が多いはずだと思います。
「彼らはすごい。自分なんかとは違う」
のではなく、
「すごい彼らですら、苦境に挑み、自分を追い込んで逆境から逃げない」
のを感じて欲しいのです。
「才能のない自分を嘆く」
「弱い自分を嘆く」
それはとても簡単で、とても甘美な誘惑です。
それ以上、考えなくてもいいから。
でも、「才能」は遺産でもあるけど、持つだけではなんの効果もない。
それを支えている多くの葛藤や努力がある。
せっかく世界最高の教材を見ているのに、それを感じられないのは、とても不幸な事です。
最高レベルの才能のあるアスリートでも、それだけでは一瞬で淘汰されてしまう。
そこに至っては、才能は、逆に足枷でしかない。
目、口、足、腕、頭、心。
持てるリソースは誰も変わりない。
腕一本でも、頭だけでも、
苦境にあって、挑む姿を見ていたいし、そこから学びたいと思います。
何度でも



