初めて全日本ロードレース選手権を見たのは2010年6月。
広島だった。
全日本は、それまでに見た僅かな経験での比較でしかないけど、他のレースとは「まったく異質な存在」だった。
僕は、その「異質さ」を言葉で表現する術がない。
通常と異なるプロトンの動きとか、視線の動きとか、KOMでもアタックが入った時点で、一瞬で視界からライダーが消える神経質な動きとか、
「事実」を列挙する事はいくらでも可能だけど、その事実を「言葉」にした途端に、全日本選手権が持っているソリッドな文脈が、消えていく気がするのだ。
ロードレースは、様々な人を惹きつける。
その美麗さであったり、ドラマ性であったり、戦略性であったり、
惹きつけられるものは人それぞれだ。
最初に見た全日本の、森林公園の蒸し暑く不快な森の中で、僕が感じたのは
「恐怖」
だった。
スポーツというよりも、「捕食」とも言える削り合い。
近代スポーツがラッピングして、無菌にして、見せないようにしている、人の原始的な闘争本能。
それがそのまま目の前にむき出しにされているように感じた。
まるで目の前に魔物が立ち、尖い鉤爪で、自らの胸を裂き、脈打つ心臓を引きずり出して、それを見せられているような体験。
それは「心臓」という概念ではなく、魔物の手の上で、脈打ち、血を吹き出し、引きちぎられていない幾ばくかの血管は、まだ魔物の裂けた胸につながっている。
レース後、シマノのテントで、土井雪広選手に以前の写真を手渡した。
その時の彼は、消沈というのでもなく、落胆というのでもなく、硬直した表情で、それでも無理に笑顔をつくり、ファンの女性の求めに応じてサインをしていた。
写真を手渡し、撮影の許可を求め、ポートレイトを撮影させていただいた。
この時の表情は、僕がレースで感じたような、魔物の心臓を見つめているかのような表情だった。
消沈し、放心しているのだが、目が死んでいない。
怪我をし、追い詰められた獣は、捕食される瞬間にこんな目をするのではないかと思った。
ファインダーからこの目を見つめ、目にフォーカスロックしている時、音が聞こえてきた。
「カタカタカタカタ……」
その音は、僕の指がシャッターの上で震えている音だった。

その目がまるで、僕の目の前に出された脈打つ心臓のようでもあり、
そして、そこを光学的記録に収めようとする自分の罪深さが怖かった。
その年の11月。
あるレストランに土井選手がいらっしゃると聞いて、新幹線に乗って大阪に向かった。
バッグの中には、額装したこの写真が入っていた。
確認してみたかったんだ。
自分はなんの為に、人の写真を撮影しているのか?
それは罪なのか?
それは自己満足なのか?
「...6月の全日本、ゴール後、写真をお渡しした時の表情です。覚えていますか?」
「覚えています。うん、覚えています。」
「...オレ、この時、なにを考えていたのかな?(微笑)」
少しだけ話をして、写真を渡し、すぐにレストランを出た。
目的は果たしたし、一人になりたい気分だった。
大阪の街はとても寒かった。
その時の目は、もう追い込まれた獣でも、脈打つ魔物の心臓でもなかった。
柔和で社交的な、朗らかな目だ。
写真を見つめる目は、喜びとも興味とも違う。
たぶん、僕が6月に見た心臓を、時間を置いて、今彼が見ているのだ。
結局、新幹線の中での自分への問いは分からないままだった。
それはやはり、本質的に罪深い行為であり、
それは自己満足である事には変わりはない。
6月の全日本の時、僕は魔物が差し出す脈打つ心臓に怯えながらも、その噴きだす血から、目が離せなかった。
それは立派な理由ではない。
単に「僕が」見たかったからだ。
引きこまれ、翻弄され、そして気がついたら、自分で自分の血の吹き出す心臓を見ていた。
2年後の昨日。
土井選手の目には、どんな心臓が写ったんだろう?