2011年1月30日日曜日
2011年1月29日土曜日
a Flowery Talent of THE 8
畑中勇介選手を始めて意識して見たのは、2009年全日本シクロクロス(12月)でした。
実際に始めて姿を見たのは2009年10月のJapan Cupで、記憶ではその時、山岳賞を獲得されています。
Japan Cupの時は、畑中選手をかなりの数撮影したのですが、その個性的な雰囲気と、攻撃的な走り以外は、失礼ながら、それほど印象に残っていませんでした。
(もっとも、その時期、日本で走られている選手をほとんど知らなかったという事もあります。)
全日本シクロで走る畑中選手は、すごく僕の目を惹きました。

成績自体はDNFでしたが、全身から発散される「楽しい」という気持ちがとても印象的でした。
担ぎ上げのセクションで、多くの観客から、「オレ8!」と声援やヤジ(?)を受け、破顔する。

レースが終わった時に、当時、まったく選手と会話したことがなかった僕が、意を決して、「お疲れ様でした!」とファインダー越しに声をかけると、「ありがとうっす!」と破顔する。

成績から見たら散々だったはずですし、レース中に笑顔を見せるなんてロードではない事でしょう。
でも、見ていると、冷やかしとかで出ているのではない事が分かります。
「楽しい」という気持ちを指でなぞり、その気持ちをかみしめながら走るような感じです。
以前書いた福本千佳選手の「楽しい」、という生来のオーラとはまた違う。
最近になって、その年の畑中選手の状態がとても良くなかったと聞きました。
今、思うと、それは
「もう一度原点に戻って、自転車の楽しさをなぞって思い出す」
という気持ちだったのかもしれません。
好きな事が職業になるのは理想的だと多くの人は思います。
でも、職業になるからこそ、本来の「好き」という気持ちを忘れてしまいます。
趣味であれば、時間と場所と気分を選べますが、職業は単発の享楽ではなく、毎日のマラソンです。
連続して安定した状況を作り出さなければいけない為、状態の悪い時にも結果を出し、またある局面では、更に追い込みたいのに、自分のボーダーを下げなければいけません。
趣味の時にはなかった「制約」に縛られるんですね。
いつしか、その「楽しい気持ち」を忘れてしまう。
もちろん、心の中心で「好き」だから、競技を続けるんでしょうけど、でも、表面的には、その気持ちを見失ってしまう事が多いです。
でも、面白いと思うのは、多くの場合、好き勝手にする趣味より、様々な制約のある「職業」という足かせは、同じ分野でも自分をさらに高いレベルに上げてくれます。
制約があるからこそ、自分の得意ではない、あるいは自分の状態が良好でない時に結果を出す為に工夫するんでしょう。
そして2010年。
初戦の熊谷クリテリウム。
畑中選手は優勝されました。
その時に運良く、シクロの写真を直接お渡しする事が出来ました。
「オレ、キタネー!でも嬉しいっす!」
とまた破顔される畑中選手。
表彰式を待つシートに腰掛けている畑中選手をファインダー越しに見て、とても印象が変わっているのに気がつきました。

たった3ヶ月前のシクロの時は、どちらかというと天真爛漫な少年的な表情だったのですが、その時は、自信に裏打ちされた大人の表情でした。
青年という表情でもなく、技術と経験を兼ね備えた大人の表情です。
そして4月の東日本GP。
ここでも優勝。
表彰式の後、インタビューを受けている表情はさらにシェープされ、見ていると、怖いぐらいの表情です。
2010年、畑中選手の表情は、レースを追う毎に研ぎ澄まされ、「強い表情」になっていくのが印象的でした。

![YUSUKE HATANAKA [Man In The Mirror]](https://lh3.googleusercontent.com/blogger_img_proxy/AEn0k_tvvZFAH8zv7gid2PY9lbBJ8hS-5PWOItKhwSz7JVUcqmwotHkbkI7i_OrM8MpnF8Zg54S3BF_QNFVRnD1aE9eG4-XY4dlZFWOR6N8kFFuXQmEzfFF00g8ZM5WQyaoGx1Oe1w=s0-d)
畑中選手は「華」という才能を持っていると思います。
多くのファンは、彼を見るだけで気持ちが高揚し、応援したくなります。
その才能は、多くの場合天性のものですが、技術や自信や葛藤に裏打ちされて、自然に巨大化していく才能です。
例えば、才能のある喜劇役者は、その人が舞台に現れるだけで観衆が沸きますよね。
それは役者の知名度ばかりではなく、容姿が面白いのではなく、その役者が
「場を支配する力」
を持っているからです。
一般にオーラと言われるものですね。
ロードは駆け引きの競技なので、「場を支配する力」というのはとても重要なスキルだと思います。

今後、どのような選択をされるのか、とても興味がある選手です。
見ているだけで力をもらえる満面の笑みは、ずっとそのままなんでしょうね。
実際に始めて姿を見たのは2009年10月のJapan Cupで、記憶ではその時、山岳賞を獲得されています。
Japan Cupの時は、畑中選手をかなりの数撮影したのですが、その個性的な雰囲気と、攻撃的な走り以外は、失礼ながら、それほど印象に残っていませんでした。
(もっとも、その時期、日本で走られている選手をほとんど知らなかったという事もあります。)
全日本シクロで走る畑中選手は、すごく僕の目を惹きました。
成績自体はDNFでしたが、全身から発散される「楽しい」という気持ちがとても印象的でした。
担ぎ上げのセクションで、多くの観客から、「オレ8!」と声援やヤジ(?)を受け、破顔する。
レースが終わった時に、当時、まったく選手と会話したことがなかった僕が、意を決して、「お疲れ様でした!」とファインダー越しに声をかけると、「ありがとうっす!」と破顔する。
成績から見たら散々だったはずですし、レース中に笑顔を見せるなんてロードではない事でしょう。
でも、見ていると、冷やかしとかで出ているのではない事が分かります。
「楽しい」という気持ちを指でなぞり、その気持ちをかみしめながら走るような感じです。
以前書いた福本千佳選手の「楽しい」、という生来のオーラとはまた違う。
最近になって、その年の畑中選手の状態がとても良くなかったと聞きました。
今、思うと、それは
「もう一度原点に戻って、自転車の楽しさをなぞって思い出す」
という気持ちだったのかもしれません。
好きな事が職業になるのは理想的だと多くの人は思います。
でも、職業になるからこそ、本来の「好き」という気持ちを忘れてしまいます。
趣味であれば、時間と場所と気分を選べますが、職業は単発の享楽ではなく、毎日のマラソンです。
連続して安定した状況を作り出さなければいけない為、状態の悪い時にも結果を出し、またある局面では、更に追い込みたいのに、自分のボーダーを下げなければいけません。
趣味の時にはなかった「制約」に縛られるんですね。
いつしか、その「楽しい気持ち」を忘れてしまう。
もちろん、心の中心で「好き」だから、競技を続けるんでしょうけど、でも、表面的には、その気持ちを見失ってしまう事が多いです。
でも、面白いと思うのは、多くの場合、好き勝手にする趣味より、様々な制約のある「職業」という足かせは、同じ分野でも自分をさらに高いレベルに上げてくれます。
制約があるからこそ、自分の得意ではない、あるいは自分の状態が良好でない時に結果を出す為に工夫するんでしょう。
そして2010年。
初戦の熊谷クリテリウム。
畑中選手は優勝されました。
その時に運良く、シクロの写真を直接お渡しする事が出来ました。
「オレ、キタネー!でも嬉しいっす!」
とまた破顔される畑中選手。
表彰式を待つシートに腰掛けている畑中選手をファインダー越しに見て、とても印象が変わっているのに気がつきました。
たった3ヶ月前のシクロの時は、どちらかというと天真爛漫な少年的な表情だったのですが、その時は、自信に裏打ちされた大人の表情でした。
青年という表情でもなく、技術と経験を兼ね備えた大人の表情です。
そして4月の東日本GP。
ここでも優勝。
表彰式の後、インタビューを受けている表情はさらにシェープされ、見ていると、怖いぐらいの表情です。
2010年、畑中選手の表情は、レースを追う毎に研ぎ澄まされ、「強い表情」になっていくのが印象的でした。
畑中選手は「華」という才能を持っていると思います。
多くのファンは、彼を見るだけで気持ちが高揚し、応援したくなります。
その才能は、多くの場合天性のものですが、技術や自信や葛藤に裏打ちされて、自然に巨大化していく才能です。
例えば、才能のある喜劇役者は、その人が舞台に現れるだけで観衆が沸きますよね。
それは役者の知名度ばかりではなく、容姿が面白いのではなく、その役者が
「場を支配する力」
を持っているからです。
一般にオーラと言われるものですね。
ロードは駆け引きの競技なので、「場を支配する力」というのはとても重要なスキルだと思います。
今後、どのような選択をされるのか、とても興味がある選手です。
見ているだけで力をもらえる満面の笑みは、ずっとそのままなんでしょうね。
ラベル:
"YUSUKE HATANAKA",
cyclist,
TALKIN
2011年1月26日水曜日
Emotion, Instinct, and Intelligence
眠りつけない夜に、Stingの1985年の記録映画、”Bring on the Night - a Band is Born”を見ていました。
当時の最高峰のジャズミュージシャンが結集して作られた「ロック」バンド。
そのバンドによるアルバム、”The Dream of Blue Turtle”の制作と、そのライブを収録した映画です。音楽ドキュメンタリーの傑作の一つと言われています。
映画の冒頭で、参加ミュージシャンが、Sringについての印象をインタビューで答えているのですが、バックボーカルの女性「Ms.Dollette McDonald」が語った印象がとても興味深かったです。
「彼(Sring)の音楽は「本能」と「知性」の両方を刺激する。そんな音楽は珍しい。」
その言葉はとても印象的でした。
改めて辞書で引いてみると
ほん‐のう【本能】
動物個体が、学習•条件反射や経験によらず、生得的にもつ行動様式。帰巣本能•防御本能•生殖本能など。
ち‐せい【知性】
1
物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。「―にあふれる話」「―豊かな人物」
2
比較•抽象•概念化•判断•推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力
つまり聞く人に対して複数のレイヤ
本能
先天的特性
制御不能
認識不能の世界(感覚も認識も及ばない世界)
意識(認識、情緒)
後天的特性
ある程度制御可能
認識された世界(感覚的所与を認識に昇華させた世界)
に働きかける音楽、という事です。
表現がメッセージとするなら、これは究極の表現です。
相手の本能、感覚、認識の全てに訴えかけるメッセージだからです。
この言葉を聞いたとき、僕が写真で目指したい世界も、
「本能」と「知性」に訴えるもの
なのだと直感的に思いました。
でも、その後、
「本能」と「知性」に訴える写真ってなんだろう?
と考えました。
いきなり知的でない表現を使うと、
「本能に訴える写真」
は、現代風に言うと
「萌え」
なのかもしれません。
説明不要、修飾不要、それだけで完結し、認識を超越して訴えかけてくるもの。
「知性に訴える写真」
知性が「感覚を認識に変換する能力」だとすると、
「写真からの事物の抽象的視覚情報から、具体的な意味情報を伝える事」
と言えるのかもしれません。
つまり、本能が言葉を超越して伝わる(グッと来ると一般に言われる感覚?)のに対して、知性は言葉で伝わる。
「写真を見て、様々な事を想像したり、連想したりする」
という表現を良く見ますが、まさにそれが知性に訴えている、と言えるのではないでしょうか?
振り返って自らの写真を見ると、本能に訴える部分はあると思うのですが、知性に訴える部分は弱いように思えます。
それは、自分の写真が、あまりにもシンプルで、主題が明確に一つだからです。
メッセージが強すぎて、想像の入り込む余地が少ないかもしれません。
それはアップがいけない、という事ではありません。
一見、周辺情報を欠落させていくような被写体へのアップでも、その視線や、アイウェアの反射や、口元の動きで、かなり想像の余地は広がるはずだと思っています。
では、もっとメッセージに対するフォーカスを弱くした方がいいのか?
でも、それをすると、自分が自分ではなくなるような気がします。
自分で写真を撮る意味がないと。
結局、2011年1月27日現在では、僕は本能に訴えかける表現に特化して、知性に訴えかける「何か」が足りないようです。
良し悪しではなく、これも僕の今の世界ですね。
その世界も、経験により、また変わっていくかもしれません。
でも、今の段階では、偏ってはいるものの、明確に自分の世界が、写真という表現の中で持てている事は、幸運な事だと思っています。
当時の最高峰のジャズミュージシャンが結集して作られた「ロック」バンド。
そのバンドによるアルバム、”The Dream of Blue Turtle”の制作と、そのライブを収録した映画です。音楽ドキュメンタリーの傑作の一つと言われています。
映画の冒頭で、参加ミュージシャンが、Sringについての印象をインタビューで答えているのですが、バックボーカルの女性「Ms.Dollette McDonald」が語った印象がとても興味深かったです。
「彼(Sring)の音楽は「本能」と「知性」の両方を刺激する。そんな音楽は珍しい。」
その言葉はとても印象的でした。
改めて辞書で引いてみると
ほん‐のう【本能】
動物個体が、学習•条件反射や経験によらず、生得的にもつ行動様式。帰巣本能•防御本能•生殖本能など。
ち‐せい【知性】
1
物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。「―にあふれる話」「―豊かな人物」
2
比較•抽象•概念化•判断•推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力
つまり聞く人に対して複数のレイヤ
本能
先天的特性
制御不能
認識不能の世界(感覚も認識も及ばない世界)
意識(認識、情緒)
後天的特性
ある程度制御可能
認識された世界(感覚的所与を認識に昇華させた世界)
に働きかける音楽、という事です。
表現がメッセージとするなら、これは究極の表現です。
相手の本能、感覚、認識の全てに訴えかけるメッセージだからです。
この言葉を聞いたとき、僕が写真で目指したい世界も、
「本能」と「知性」に訴えるもの
なのだと直感的に思いました。
でも、その後、
「本能」と「知性」に訴える写真ってなんだろう?
と考えました。
いきなり知的でない表現を使うと、
「本能に訴える写真」
は、現代風に言うと
「萌え」
なのかもしれません。
説明不要、修飾不要、それだけで完結し、認識を超越して訴えかけてくるもの。
「知性に訴える写真」
知性が「感覚を認識に変換する能力」だとすると、
「写真からの事物の抽象的視覚情報から、具体的な意味情報を伝える事」
と言えるのかもしれません。
つまり、本能が言葉を超越して伝わる(グッと来ると一般に言われる感覚?)のに対して、知性は言葉で伝わる。
「写真を見て、様々な事を想像したり、連想したりする」
という表現を良く見ますが、まさにそれが知性に訴えている、と言えるのではないでしょうか?
振り返って自らの写真を見ると、本能に訴える部分はあると思うのですが、知性に訴える部分は弱いように思えます。
それは、自分の写真が、あまりにもシンプルで、主題が明確に一つだからです。
メッセージが強すぎて、想像の入り込む余地が少ないかもしれません。
それはアップがいけない、という事ではありません。
一見、周辺情報を欠落させていくような被写体へのアップでも、その視線や、アイウェアの反射や、口元の動きで、かなり想像の余地は広がるはずだと思っています。
では、もっとメッセージに対するフォーカスを弱くした方がいいのか?
でも、それをすると、自分が自分ではなくなるような気がします。
自分で写真を撮る意味がないと。
結局、2011年1月27日現在では、僕は本能に訴えかける表現に特化して、知性に訴えかける「何か」が足りないようです。
良し悪しではなく、これも僕の今の世界ですね。
その世界も、経験により、また変わっていくかもしれません。
でも、今の段階では、偏ってはいるものの、明確に自分の世界が、写真という表現の中で持てている事は、幸運な事だと思っています。
2011年1月21日金曜日
Portrait of Women(st-2)
Previously on “Portrait of Women(st-1) (前回までの話)
昨年末、それまでのモノクロームだけの世界から、カラーに挑戦した時、ある女性のポートレイトを見た友人(女性)が言いました。
「この写真はあまり好きではありません。まるでお人形さんのように現実感がなく、遠い気がするんです。」
また、別の女性のポートレイトを見た、ある知人(女性)は言いました。
「あなたが撮影した写真を見ると、なんだか心の中を見透かされている気がするんです。なんというか、生々しく近い感じ」
これもとても対照的な意見です。
時々、写真を評して
「相手の内面に迫るようだ」
と言われる事があるのですが、とても光栄な意見だけど、それは違うと思っています。
僕はやはり撮影している相手の事は分からない。
理解したいと思うし、その努力はしているつもりです。
でも、例え戦績を暗記し、逐一その人と一緒にいたとしても、やはり相手の心の内を掘り下げる事はできません。
心の内って様々に複雑な要素がからみあって常時変化しているので、実は本人であっても理解できない部分がありますよね。
だから、人の心の内を理解する事は不可能だと思うし、理解したと思うのはとても危険な事だと思うんです。
だから、僕は写真を撮影する時、あるいは編集する時、自分がその人を見て感じた印象を、最大限投影できるようにしたいと思っています。
相手の心を掘り下げるのではなく、自分の心を掘り下げていく。
だから僕の写真は、自分の心情の記録でもあるかもしれません。
きっと、
「内面に迫って見える」
と感じるのは、その為だと理解しています。
こういう言い方だと誤解を招くかもしれませんが、だから、男性である自分には、女性の心の内面は、余計に理解できません。
女性も男性も共有の心的傾向はあるものの、やはり大きな違いがあると思います。
男性から見ると、複雑で、繊細で、ただ、決定すると、男性が及ばないほどの強さを発揮するのが女性であるとの認識です。
「女性の写真が遠く現実感がない」
というのは、おそらくその僕の女性像の心的投影だからです。
分からないから、ある意味、偶像視していて、そこが遠く現実感を伴わないと感じる一因かもしれません。
反面、相手が男性の場合、内面は分からないものの、男性である故の陰の部分も自分から連想して想像がつくので、異文化と呼ぶほどの遠さはないのかもしれません。
でも、これは自分の写真にとって悪い事だとは思いません。
一番大事にしている事が
「相手に対する自分の印象を忠実に表現する」
という事であるならば、分からない部分、偶像視している部分を、そのまま表現するのは正しい事だと思います。
現実感がなくとも、やはり逆境にあって闘い、自分の限界を突き詰めようとする女性の姿はとても美しいし、美しいと思うものを、そのまま表現する姿勢は大事だと思いたいです。
「肖像」としての光と罪
というは、おそらくずっと僕につきまとうテーマだと思います。
その時々で価値観も違ってくる事でしょう。
でも、今は、この価値観で、戦う女性を応援しています。


![MAYUKO HAGIWARA [3A-VA-VA-3A-A-FF-∞]](https://lh3.googleusercontent.com/blogger_img_proxy/AEn0k_t24Iw-apl9WLHozm1R8g5jlg8w9D4Ohu47F0K-hayMB6cDNOqmjzYoM3sY2kmUU-btfojkSPZGQ___dx52wvdX7X666flLvNMRufMK5D9Wqa0W3EFdvJ3FcfJNHufCjg=s0-d)

![KANAKO NISHI :The Empress of [Blanc/Noir]](https://lh3.googleusercontent.com/blogger_img_proxy/AEn0k_tC0ffUXsVjj43qFPs4EvTik88IB_jDlBAClw-xJQ7INxn_q6h852K4Uc97tCZ3tOBYRYMjhSFxnPQep28BCXxTVCRmVttxV8Djnc1CHSeUkPnlx15tkWR2qQCRzi79m7o=s0-d)



女性サイクリストの肖像 [NOT LOVE BUT AFFECTION]:Femme
昨年末、それまでのモノクロームだけの世界から、カラーに挑戦した時、ある女性のポートレイトを見た友人(女性)が言いました。
「この写真はあまり好きではありません。まるでお人形さんのように現実感がなく、遠い気がするんです。」
また、別の女性のポートレイトを見た、ある知人(女性)は言いました。
「あなたが撮影した写真を見ると、なんだか心の中を見透かされている気がするんです。なんというか、生々しく近い感じ」
これもとても対照的な意見です。
時々、写真を評して
「相手の内面に迫るようだ」
と言われる事があるのですが、とても光栄な意見だけど、それは違うと思っています。
僕はやはり撮影している相手の事は分からない。
理解したいと思うし、その努力はしているつもりです。
でも、例え戦績を暗記し、逐一その人と一緒にいたとしても、やはり相手の心の内を掘り下げる事はできません。
心の内って様々に複雑な要素がからみあって常時変化しているので、実は本人であっても理解できない部分がありますよね。
だから、人の心の内を理解する事は不可能だと思うし、理解したと思うのはとても危険な事だと思うんです。
だから、僕は写真を撮影する時、あるいは編集する時、自分がその人を見て感じた印象を、最大限投影できるようにしたいと思っています。
相手の心を掘り下げるのではなく、自分の心を掘り下げていく。
だから僕の写真は、自分の心情の記録でもあるかもしれません。
きっと、
「内面に迫って見える」
と感じるのは、その為だと理解しています。
こういう言い方だと誤解を招くかもしれませんが、だから、男性である自分には、女性の心の内面は、余計に理解できません。
女性も男性も共有の心的傾向はあるものの、やはり大きな違いがあると思います。
男性から見ると、複雑で、繊細で、ただ、決定すると、男性が及ばないほどの強さを発揮するのが女性であるとの認識です。
「女性の写真が遠く現実感がない」
というのは、おそらくその僕の女性像の心的投影だからです。
分からないから、ある意味、偶像視していて、そこが遠く現実感を伴わないと感じる一因かもしれません。
反面、相手が男性の場合、内面は分からないものの、男性である故の陰の部分も自分から連想して想像がつくので、異文化と呼ぶほどの遠さはないのかもしれません。
でも、これは自分の写真にとって悪い事だとは思いません。
一番大事にしている事が
「相手に対する自分の印象を忠実に表現する」
という事であるならば、分からない部分、偶像視している部分を、そのまま表現するのは正しい事だと思います。
現実感がなくとも、やはり逆境にあって闘い、自分の限界を突き詰めようとする女性の姿はとても美しいし、美しいと思うものを、そのまま表現する姿勢は大事だと思いたいです。
「肖像」としての光と罪
というは、おそらくずっと僕につきまとうテーマだと思います。
その時々で価値観も違ってくる事でしょう。
でも、今は、この価値観で、戦う女性を応援しています。
女性サイクリストの肖像 [NOT LOVE BUT AFFECTION]:Femme
2011年1月18日火曜日
Why Should I Cry For You
昨年9月、横断歩道で大型トラックにひかれる事故に遭遇しました。
10トンのトラックだったのですが、奇跡的に左の肋骨を5本骨折しただけで済みました。
医師の見解では、9割以上即死していた状況だったそうです。
入院初日のベッドの上。
その時は痛みで寝返りも出来ず、唯一出来る事は考える事だけ。
「事故を避ける事は出来たのか?」
を考えると、結論は
「NO」
青信号で横断歩道を渡っている時に、視界の外から接近するトラックを確認する術はありません。
そう考えると、今この場でベッドで寝ている僕は、パラレル世界では遺体安置所にいて引き取られるのを待っているわけです。
人生を振り返る事もなく、
恐怖を感じる事もなく、
家族に別れを言うでもなく。
そして、家族をはじめ、様々な知人や関係者は、僕のいない世界で残される。
「死」という言葉は誰でも知っていて、いつか訪れる事は知識では知っている。
でも、漠然と、
「死」はずっと先の延長線。そしてその後の終焉
と思っていました。
でも、その時の僕は、なんの覚悟も後悔もドラマもなく、日常に「死」が寄り添っていた。
人生の延長の先の最後のイベントに「死」があるのではなく、
各ステージでランダムに発生する状況が「死」であり、それは「生」の対局ではなく、不可分な要素なんです。
---------------------------------------------------------------------------------
妻が父親を失ったのは14才の時です。
結婚当初、彼女があまり父親の事を語る事はありませんでした。
ただ、
「お父さんが死んだ時、まったく悲しくなかった。涙も出なかった。」
と言っていただけ。
最近になって、少しづつ、父親との思い出を話すようになりました。
・小さい姉妹を並べて、買ったばかりのフィルムカメラで写真を撮ろうとするけど、操作に手間取り、シャッターを押す時には、二人ともふくれてしまって変な顔の写真だった。
・音楽が好きだったので、お酒を飲みながら姉妹を座らせて、彼のアイドルであるカラヤンの素晴らしさをマニアックに延々と語って、さらに姉妹の不興を買った。
不興を買った話題ばかりだけど、妻が語るその描写は、とても生き生きしていて、父親に対する愛情が感じられます。
「でも、とても優しい人だった。」
父親をそう語るのも始めて聞いた気がします。
結局、彼女が父親との別離を消化できるまで、すごく長い時間がかかったんでしょう。
もしかしたら、最近まで、父の不在を納得していなかったのかもしれません。
人は人と影響しあう事で自我を形成する。
人と接する事で、自分と人の境界線を探り、不思議な事に、独立した存在になる。
彼女の当時の年齢では、父親との境界線があいまいで、彼女にとって、それは不可分の自分の心のピースだったのかもしれません。
もう少しすると、僕は彼女の父親が他界した年齢になります。
そして、それを過ぎて僕が生きているなら、当然ながら、彼女の父親との年齢は逆転し、父親は思い出の中でそのままだけど、僕は年老いていく。
とても不思議な気がします。
生きているのを変化する事だと考えれば、僕は紛れもなく、今は生きている。
でも、いろんな記憶や、彼女の価値観の中に父親は死後も生きている。
彼女は長い年月をかけて、父の不在を理解したけど、それと同時に、始めて父親からの愛情も理解した。そして父親への愛情も理解した。
死が不可避で、避ける事の出来ないものなら、死後に、家族や知人の心にそのように残っていけたら嬉しいです。
そして、自分を知る人達も全て他界した時が、それが本当の意味での「死」なんでしょう。
Sting.
Why Should I Cry For You
1991
Under the dog star sail
天狼星の下、舟は進む
Over the reefs of moonshine
Under the skies of fall
Over the reefs of moonshine
Under the skies of fall
月明かりに照らされた岩礁と秋空の狭間
North, north west, the stones of Faroe
北北西にフェローの岩が見える
North, north west, the stones of Faroe
北北西にフェローの岩が見える
Under the Arctic fire
Over the seas of silence
北極星の瞬きと
海の静寂の狭間
Hauling on frozen ropes
Hauling on frozen ropes
凍てついたロープを手繰り寄せる
For all my days remaining
For all my days remaining
僕に残された日々ずっと
But would north be true?
But would north be true?
でも、北が進むべき道なのだろうか?
All colors bleed to red
All colors bleed to red
全ての色が、血の朱に噴き出す
Asleep on the ocean's bed
Asleep on the ocean's bed
大海に抱かれて眠り
Drifting in empty seas
Drifting in empty seas
空虚な海を漂う
For all my days remaining
For all my days remaining
僕に残された日々ずっと
But would north be true?
But would north be true?
でも、この道でいいんだろうか?
Why should I?
Why should I cry for you?
Why should I cry for you?
どうして僕が?
どして僕があなたの為に泣かないといけないんだろう?
Dark angels follow me
Over a godless sea
Dark angels follow me
Over a godless sea
神無き海を闇の天使が僕についてくる。
Mountains of endless falling,
Mountains of endless falling,
いつまでも崩れていく山々
For all my days remaining,
僕に残された日々ずっと
What would be true?
For all my days remaining,
僕に残された日々ずっと
What would be true?
何が正しいんだろう?
Sometimes I see your face,
The stars seem to lose their place
Sometimes I see your face,
The stars seem to lose their place
時折君の顔を思い浮かべると、
瞬く星々が消えていくようだ
Why must I think of you?
Why must I think of you?
どうしてあなたの事を考えないといけないんだろう?
Why must I?
Why must I?
どうして僕が?
Why should I?
Why should I?
どうして?
Why should I cry for you?
Why should I cry for you?
どうして僕があなたの為に泣かないといけないんだろう?
Why would you want me to?
Why would you want me to?
なぜ僕に泣いて欲しいんだ?
And what would it mean to say,
That, "I loved you in my fashion"?
And what would it mean to say,
That, "I loved you in my fashion"?
それを言葉にする事になんの意味があるんだろう?
「僕なりに愛していた」って
What would be true?
What would be true?
なにが正しいんだ?
Why should I?
Why should I?
どうして
Why should I cry for you?
Why should I cry for you?
どうして僕は君を想って泣いているんだろう?
2011年1月16日日曜日
写真集 "NOT LOVE BUT AFFECTION" カフェサコッシュにて展示中です。
■追記 2011-01-23(日曜日) 写真集展示始まりました。
サイクリストの肖像 “NOT LOVE BUT AFFECTION”
昨年は “rev.2010 code.Yin/Yang”として、455枚がFlickrに掲載されました。
昨年末、書籍としてまとめてみたいと考え、その中から20枚を選定し、書籍を作りました。
33.5cm X 23.3cm ハードカバー大型美術書サイズ。
その選択基準は、
「品質」
ではなく、
「自分が最も表現したいと思う形が、シンプルに現れているもの」
を選びました。

今回、東京、下北沢のサイクリングカフェ、cafe sacocheさんのご厚意で、置いて頂ける事になり、広く皆さんに見て頂ける機会が持てました。
モニタで見るデジタルデータと、紙媒体に印刷された写真はまったく表情が異なります。
以前から、写真の究極の形は、プリントした大判の写真だと思っていました。
今回、始めて書籍をデザインする事になり、書籍には書籍の表現がある事に気がつきました。
書籍の装丁の制約があるからこそ可能な表現もあります。
関東方面の方、東京に行かれる方、是非実際に手にとって、見て頂けたら光栄です。
20のシーンのサイクリストの記録でもあり、
僕の葛藤の記録でもあります。
是非。
16-jan-2010 18:00 追記
展示は今週(1/17日(月)〜1/23日(日)のいずれかから開始です。
開始したらまた告知します。
2月までは知人に寄贈したものを展示していただきますが、その後、カフェサコッシュさん用に寄贈したものを置いて頂く予定で、期限はとりあえずありません。
サイクリストの肖像 “NOT LOVE BUT AFFECTION”
昨年は “rev.2010 code.Yin/Yang”として、455枚がFlickrに掲載されました。
昨年末、書籍としてまとめてみたいと考え、その中から20枚を選定し、書籍を作りました。
33.5cm X 23.3cm ハードカバー大型美術書サイズ。
その選択基準は、
「品質」
ではなく、
「自分が最も表現したいと思う形が、シンプルに現れているもの」
を選びました。
今回、東京、下北沢のサイクリングカフェ、cafe sacocheさんのご厚意で、置いて頂ける事になり、広く皆さんに見て頂ける機会が持てました。
モニタで見るデジタルデータと、紙媒体に印刷された写真はまったく表情が異なります。
以前から、写真の究極の形は、プリントした大判の写真だと思っていました。
今回、始めて書籍をデザインする事になり、書籍には書籍の表現がある事に気がつきました。
書籍の装丁の制約があるからこそ可能な表現もあります。
関東方面の方、東京に行かれる方、是非実際に手にとって、見て頂けたら光栄です。
20のシーンのサイクリストの記録でもあり、
僕の葛藤の記録でもあります。
是非。
16-jan-2010 18:00 追記
展示は今週(1/17日(月)〜1/23日(日)のいずれかから開始です。
開始したらまた告知します。
2月までは知人に寄贈したものを展示していただきますが、その後、カフェサコッシュさん用に寄贈したものを置いて頂く予定で、期限はとりあえずありません。
2011年1月13日木曜日
GIFT
「才能」という意味を表す言葉のうち、”gift”は文字通り
「天賦の才」
を表します。
まさに天から授かった才能。生まれつきの資質
スポーツでも芸術でも、確かに「天賦の才」を持つ人は存在し、その人を間近に見ながら同じ事をしていると、理不尽な絶望を感じます。
彼ら、彼女らは、まるで、スタートレックのワープ航法のように、膨大な距離を一瞬で移動しているように見えます。
まるでプロセスなど存在せず、最初から解が頭の中に浮かぶかのように。
写真を撮るという行為は、経験、知識ももちろん重要なのですが、そもそも撮り始めた時から目を引く写真を撮る人というのはいて、やはりgiftは存在します。
というより、絵画や音楽は基礎技術と基礎知識は絶対に必要ですが、写真は基本、
「シャッターを押すだけ」
なので、圧倒的に敷居が低い。
なにかを表現する手段として、これほど入り口が広いものもないでしょう。
つまり、入り口が広いだけに、giftが明確になるように見えます。
でも、数学と違い、表現の分野では正解がありません。
つまり、そのgiftは、
「数多あるパスの中で、高い品質に到達できる才能」
なんです。
絶対評価が出来ないので、それは「標準よりも高い品質を有する」という相対評価でしかない。
でも、それは「相対的な高品質」でしかないだけに怖いgiftです。
なぜなら、常に自分を客観視できないと、与えられたgift以上には進めないからです。
写真を始めたのがレースの写真だったので、2009年末まで、ほとんど自転車レースの写真ばかり撮影していました。
自分が好きな自転車レースを撮影できるのが、ただひたすら嬉しくて、また人に評価されるのが嬉しくて、レース以外を撮影する事はありませんでした。
たとえば、「花」や「風景」は、写真の定番ですが、まったく興味は湧かず、酷い話ですが、「隠居した老人の嗜み」ぐらいに思っていました。
2010年2月。友人のお母さんが他界され、衝動的に、その手向けに花の写真を撮ろう、と思い立ちました。
植物園で咲いていた紅梅。
![[February] in memories of..(take-2)](https://lh3.googleusercontent.com/blogger_img_proxy/AEn0k_tqfO_QxoZB7hKr8rAeB_7ygbDPt5qU2BvOV7f-pKydpFPpmhafXYXMyaICPsmmiMVTRPPwfiFQdCspoBtqREPf5cHgY8agGbfxX-0Tht36Ux6SyFL7eboJGq6CZC8NBw=s0-d)
改めて花を花として見てみると、いろいろ気づく事が多いです。
・当然だけど動かない。
・被写体が動かないから、こちらが動く。構図を作る。
・レースでは基本、入力がきてシャッターを押す「受動」。しかし、花の場合、こちらから出力して構図、露出を構築する「能動」
・始めて考える。「構図とは?」「自分の求める露出とは?」(適正露出ではない)
この年の春、膨大な数の花を撮影したのですが、レースでは思いもよらなかった様々な考え方が出来て、とても興味深かったです。


そして、そこで模索した事は、またレースの写真にフィードバックされる。
2010年春以降のレースの写真は、あきらかに構図を意識し、露出を意識しています。
レースの写真が受動である事には変わりはない。
でも、その短い時間で模索した結果は、反射として表に出す事が出来る。
まったく無駄だと思っていたピースが、思いもかけず、自分の本筋を補完する結果になりました。
これは「無駄も役に立つ」という教訓ではありません。
自分が進んでいる道がゴールがなく、常に模索の連続であるなら、
「今ある道の延長」
だけでなく、
「ノイズのように思えるランダムな結果」
から、道を見つけ、それを真剣に考える事はとても重要だと思います。
たとえば、生物の進化の歴史。
これは常に環境適応型の正常進化ばかりではありません。
環境に適応しすぎた種は、環境ゆえに滅びます。
時々発生する「突然変異」
それが異端であっても、そのノイズが生命全体にパラダイムシフトを起こす触媒になっています。
その突然変異の種を見つけ、それを徹底的に検証する事。
それが一番大事な事だと思います。
だから、もし「天才」という称号を与えられる人がいるなら、
その人はとても不幸かもしれない。
giftで上げられた高みまでしか行けず、その位置が高ければ高いほど、自分を見つめ直す根拠がない。
泥臭くても、地をはうような姿勢をしていても、
自分の目と耳と頭で、一つ一つの土塊を判断したいし、その姿勢は忘れたくないと思います。
格好悪い事を恐れていてはいけないんですね。
「天賦の才」
を表します。
まさに天から授かった才能。生まれつきの資質
スポーツでも芸術でも、確かに「天賦の才」を持つ人は存在し、その人を間近に見ながら同じ事をしていると、理不尽な絶望を感じます。
彼ら、彼女らは、まるで、スタートレックのワープ航法のように、膨大な距離を一瞬で移動しているように見えます。
まるでプロセスなど存在せず、最初から解が頭の中に浮かぶかのように。
写真を撮るという行為は、経験、知識ももちろん重要なのですが、そもそも撮り始めた時から目を引く写真を撮る人というのはいて、やはりgiftは存在します。
というより、絵画や音楽は基礎技術と基礎知識は絶対に必要ですが、写真は基本、
「シャッターを押すだけ」
なので、圧倒的に敷居が低い。
なにかを表現する手段として、これほど入り口が広いものもないでしょう。
つまり、入り口が広いだけに、giftが明確になるように見えます。
でも、数学と違い、表現の分野では正解がありません。
つまり、そのgiftは、
「数多あるパスの中で、高い品質に到達できる才能」
なんです。
絶対評価が出来ないので、それは「標準よりも高い品質を有する」という相対評価でしかない。
でも、それは「相対的な高品質」でしかないだけに怖いgiftです。
なぜなら、常に自分を客観視できないと、与えられたgift以上には進めないからです。
写真を始めたのがレースの写真だったので、2009年末まで、ほとんど自転車レースの写真ばかり撮影していました。
自分が好きな自転車レースを撮影できるのが、ただひたすら嬉しくて、また人に評価されるのが嬉しくて、レース以外を撮影する事はありませんでした。
たとえば、「花」や「風景」は、写真の定番ですが、まったく興味は湧かず、酷い話ですが、「隠居した老人の嗜み」ぐらいに思っていました。
2010年2月。友人のお母さんが他界され、衝動的に、その手向けに花の写真を撮ろう、と思い立ちました。
植物園で咲いていた紅梅。
改めて花を花として見てみると、いろいろ気づく事が多いです。
・当然だけど動かない。
・被写体が動かないから、こちらが動く。構図を作る。
・レースでは基本、入力がきてシャッターを押す「受動」。しかし、花の場合、こちらから出力して構図、露出を構築する「能動」
・始めて考える。「構図とは?」「自分の求める露出とは?」(適正露出ではない)
この年の春、膨大な数の花を撮影したのですが、レースでは思いもよらなかった様々な考え方が出来て、とても興味深かったです。
そして、そこで模索した事は、またレースの写真にフィードバックされる。
2010年春以降のレースの写真は、あきらかに構図を意識し、露出を意識しています。
レースの写真が受動である事には変わりはない。
でも、その短い時間で模索した結果は、反射として表に出す事が出来る。
まったく無駄だと思っていたピースが、思いもかけず、自分の本筋を補完する結果になりました。
これは「無駄も役に立つ」という教訓ではありません。
自分が進んでいる道がゴールがなく、常に模索の連続であるなら、
「今ある道の延長」
だけでなく、
「ノイズのように思えるランダムな結果」
から、道を見つけ、それを真剣に考える事はとても重要だと思います。
たとえば、生物の進化の歴史。
これは常に環境適応型の正常進化ばかりではありません。
環境に適応しすぎた種は、環境ゆえに滅びます。
時々発生する「突然変異」
それが異端であっても、そのノイズが生命全体にパラダイムシフトを起こす触媒になっています。
その突然変異の種を見つけ、それを徹底的に検証する事。
それが一番大事な事だと思います。
だから、もし「天才」という称号を与えられる人がいるなら、
その人はとても不幸かもしれない。
giftで上げられた高みまでしか行けず、その位置が高ければ高いほど、自分を見つめ直す根拠がない。
泥臭くても、地をはうような姿勢をしていても、
自分の目と耳と頭で、一つ一つの土塊を判断したいし、その姿勢は忘れたくないと思います。
格好悪い事を恐れていてはいけないんですね。
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