2011年1月3日月曜日

Expression

人の表情はとてもデリケートなものです。


特にファインダーで見ている人の表情。
レースではなく、正面から人を撮影した時、その表情の移ろいは、自分との距離感でもあり、とても捕らえるのが難しい。

手のひらに落ちた淡雪みたいに、1秒の時間が長く感じます。

2010年のシマノ鈴鹿ロードで、あるチームの撮影をさせて頂いた際、チームの方から

「どんどん指示して撮ってください!」

と言われたのですが、その時になって、人を正面から撮影する事の難しさ、恐ろしさを痛感しました。

その時まで、人物の写真を撮り、それに自分の印象を乗せてレタッチする事に、なんら躊躇いがなく、自分も目標に誘導する事は普通だと思っていました。

ただ、正面から写真を撮る時、視線やポーズを要求するのは出来ませんでした。

もしかしたら、それは正面切っては自分の意見が言えないような卑怯な感情なのかもしれません。

その時は分からなかったのですが、いろいろあった今になって考えてみると、

<レタッチしている時>
その人が発散した熱量、その印象を忠実に再現する為に、光学的表現では再現できなかった側面を表現しようとしている。

という事だと思っています。

つまり、その人物の印象を表現する手段としてレタッチがあり、その時には自分の主観要素が全面に出てもいいが、撮影時に、その人の意図と違う要素をノイズとして入れたくない。

たとえば、相手に、ある動作を要求した場合、それは相手の自由意志ではなく、表情は死んでしまう気がするんです。

職業的被写体の場合、要求により表情を作るスキルがあるのですが、それは僕が求めているポートレイトとは違います。

でも、興味深いのは、指示をしなくても、自分の存在を消す、というのとは違うんです。

初対面であっても相手に信頼されなければならず、その為には自分を偽ってはならない。
そして、会話の流れ、時間の流れの中で、表情は常に移ろいゆく。

その時、その人の表情がどのように移ろうのか見つめているのは、とても刺激的な経験だし、レース自体を撮影しているよりも、はるかに緊張感を伴い、半分呼吸する事も忘れている事が多い。


人の表情がとても興味深いと感じたのは、シマノ鈴鹿ロード2009のポディウムに立つ別府史之選手を撮影した時です。


その時は、まだ写真を始めたばかりで、自分がどういう写真を撮りたいのかも分かっておらず、あまり写真を撮る意味を見いだせていませんでした。


別府史之選手はその年のツールドフランスに出走され、シャンゼリゼ・ステージで敢闘賞を獲得。その凱旋レースでした。

別府史之選手を実際に見たのはこの時の鈴鹿が始めてです。

それまで写真を見た印象では、柔らかい印象の、穏やかそうな、優しそうな青年、という印象でした。


でも、ポディウムで見た時、それまでの写真で見た印象とはまったく違い、強い意志を持った、ある意味、「揺るぎのない」表情だと感じました。

長い欧州生活で培ったものなのか、あるいはツールでの経験で、なんらかのブレイクスルーがあったのか。


ファインダーで見ている彼の表情は、随時変化し、確かに、それまで見た事のある表情も多いのですが、全ての表情の底には、やはり強い意志が垣間見え、そして、その時、最後に撮影した表情は今までにまったく見た事のなかった表情でした。


<撮影時のオリジナルjpeg>

FUMIYUKI BEPPU


特に気負っているわけでも、劇的な表情でもなく、とてもニュートラルな表情なのですが、彼が通過してきた道や葛藤みたいなものが垣間見えるような気がします。
ちょうどモナ・リザの肖像のように、見る人により、また見る人の気分により、いろんな見方のある表情です。


その時に感じた印象をずっと反芻していて、半年後にモノクロームにしたもの。

<モノクローム変換>


FUMIYUKI BEPPU  :Le Blanc Suprême-45


印象は「経験と成長」だったので、陰影はどちらかというときつく、汚れのように。
これは、僕がその時にもった印象そのものです。



人によっては、これは罪深い愚行と写るかもしれません。
でも、その時にファインダーで見ていた印象は、まさに色が抜けた音のない世界のようでした。



その時も、今でも、別府史之さんとは言葉を交わしてはいません。
今自分が追求している「相手と対面し、その印象を記録する」というテーマ以前の撮影です。

自分が会話して、そして作り上げた関係はそこには投影されていません。
だけど、それは要求した表情でもない。

表情は一期一会の物で、今は当時より、技術的にも人間的にも成長していると思いたいのですが、同じ表情は絶対に撮れないと思います。


人の表情は、本当に多くの情報の宝庫です。そして、それは受け手の数だけ正解がある。


ずっとこの写真はご本人に渡したいと思っていて、念願かなって友人の協力により、昨年のサイクルモード大阪でお渡しする事が出来ました。
(僕は交通事故の影響で行けませんでした)


自分からの直球の手紙でしたが、とても喜んでくださったそうで、終了後、Twitterで

“Special Thanks to You!”

のメッセージを頂いた時は、ずっと、自分が葛藤していきた事が一つ完結した気がして、とても救われた気持ちでした。


僕が人の表情の写真、というのに真剣に取り組もうと思った原点のショットでもあり、とてもニュートラルな表情なので、その時の自分の心情を表現するのに、たぶん、この先も挑戦し続ける題材だと思います。

迷った時には見返して、自分の原点を確認しています。

原点だけど線分上の通過点ではない、

ある意味、この時だけ撮れた到達点でもあります。



FUMIYUKI BEPPU :Adagio :take-2

2011年1月1日土曜日

RECORDS

TOJ2010伊豆ステージの終了後、

各チームのテントを巡って、レース後の選手の表情を撮影していました。

翌日は最終の東京ステージ、しかも内容がクリテリウムとあって、総合の大勢はほぼ決定しており、多くの選手の表情は、どちらかというと穏やかな印象でした。

ただ、TEAM NIPPOのテントだけは違っていました。

宮澤崇史選手は、このステージでのチームの方針に納得がいかない様子で、激高し、監督に激しく意見していました。

その発散される熱量はすさまじく、誰も周りに近づけない状態でした。

僕はその熱量に威圧されながら、でも、その表情に魅入られたようにシャッターを押し続けました。


TAKASHI MIYAZAWA   : Le Blanc Suprême-86


帰宅し、Flickrに選択データをアップロードした後、宮澤さんの激高されている場面を撮影した事について、かなり悩んでいました。


僕の中で、宮澤選手のイメージは、真のプロフェッショナル。

それは、職人的な意味合いではなく、「魅せる」事も視野に入れた、真のプロアスリートの姿だと思っています。



そんな宮澤選手が、激高した姿をファンに見せたいと思うだろうか?



それは絶対にない。

彼の中では、おそらく厳密なセルフイメージがあり、それを崩したいとは思わないはずです。

僕が報道関係者だったら、このシーンを撮影する事はなかったと思います。

それは選手との阿吽の呼吸であり、そのルールを守る事によって信頼関係を築くものだから。

では、なぜ、僕は撮影したのか?そしてFlickrに公開したのか?




パパラッチのように「ピーピング・フォト(のぞきみ写真)」に価値を見いだしている。




その疑念がずっと頭にあり、TOJの後かなり引きずっていました。


ただ、僕が断言できるのは、僕がこのシーンを撮影したのは、

「美しい」

と思ったからです。

「怒る」

という行動は、とてもエネルギーのいる行為です。
生活していて、本当の意味で怒る事って、ほとんどありません。
多くの場合、怒るより説得した方が効率的だし、エネルギーの損失もない。

だから、激高する宮澤選手を見て、そこまでの(ある意味常軌を逸する)熱意を、「勝負」というものに傾けているんだ、と痛感しました。




宮澤選手にとって、そのステージは、
「消費した通過点」
ではなく、
「勝てる可能性をみすみす放棄した失態」
だったのです。





でも、写真には

「激高している状態」

だけが記録される。それをどう受け取るかは、受け手次第。

考えているうちに、どんどん深みにはまってしまい、かなり苦しくなったので、弱気になっていた事もあり、観戦歴の長い知人に相談しました。

知人の回答

「確かに報道で使われる写真ではないけど、これも記録だと思う。」


「写真には日付が残るでしょう?それが公開されている事は、後になってきっと価値がある事だと思う。」


「宮澤さんは、この時、どんな気持ちで怒っていたんだろうね?って、きっと後から誰かが思う。それだけでも、記録の少ないロードレースにとっては意味がある。」


その時までずっと忘れていたんですが、写真の基本特性は

「記録を保管する」

事だったんですね。

時間を静止させ、日時を記録し、今では場所まで記録できる。

その時まで、自分にとって写真を記録として思った事はなく、絵筆とか万年筆みたいな感覚でした。


僕の写真は「アート的」と評される事が多く、撮影した写真はその「素材」と見なされる事が多い。

でも、たとえ「素材」であっても、その「素材」が

「本質的に記録特性を持った写真」

である事には変わりがなく、見る人に対して、なんらかの記憶の媒介になるという点では、報道の写真と同質なのかもしれません。



後に、あるサイクリストが、僕が撮影した本人の写真を見て



「その時に考えていた事を、ありありと思い出した」



と評されたのも、その結果なんでしょう。

報道の写真は、レースの流れや時間軸を記録し、僕の写真は、もっと皮膚に近い、痛みや、迷いといった感覚を記録しているのかもしれません。


自分が100%邪心なしでその写真をとったのかは、正直、今でも自信がありません。

でも、その話を聞いた時に、なんで自分がレースの写真を撮影して、記録し、残すのか、少し理解できたような気がします。




最初は自尊心から。

次第にいろんなサイクリストと接するようになり、彼ら彼女らの生きている世界を見て、



「サイクリスト達が情熱を傾けている姿を記録し残したい」



という気持ちに変容していったんだと思います。

仕事で建物や、ソフトウェアを設計したら、それは見える形で残ります。

でも、ロードレースの場合、あれほど過酷な状況で戦っているのに、記録に残る事ってとても少ない。

それって恐怖だと思うんです。




僕が自転車に競技として乗る事に関心を示さないのも、



「自分はアスリートではなく、記録し、サポートする立場」



という厳密な線引きがあるからだと思います。




興味がある対象に、主体として関わりたいと思うのは、人の自然な欲求です。

アスリートや天才的な才能を持つ人々は素晴らしいけど、特殊な才能のある人だけStand Aloneで存在している訳ではない。

それをサポートする人、応援するファン、全てがユニゾンになって系(system)が構成される。

そう考えたら、初めて、自分の立場に、少し自信を持つ事ができました。

葛藤し、悩んで進む事は、アスリートもフォトグラファーも同じ。




肖像写真は、本質的に「罪」である事には変わらないけど、、自分の立ち位置を見失わなければ、もうちょっと続ける事はできそうな気がします。


僕は元々とてもメンタルの強い人間だと思っていたのですが、写真を始めてから、いろんな弱点が剥き出しになり、びっくりするほどセンシディブな反応に驚く事も多いです(笑)

どうしても自分で消化しきれず、アームストロングの誠実さと同数しかいない希少な友人に話す事もあります。



ただ、それは逃げているのではなく、自分の中の考えを昇華させるストレッチだと思うんです。(往々にして言葉が足らないのですが(笑))




今度、あなたに、そういう機会があれば、身の不運だと諦めて、そのストレッチに付き合っていただけると、とても嬉しいです(笑)


Happy New Year.

2010年12月29日水曜日

THE ZONE

萩原麻由子選手の走りを初めて見たのは、今年、2010年4月24日。
季節外れの吹雪になった群馬CSC東日本グランプリでした。

萩原選手はファーストラップから独走。まったく他の選手を寄せ付けず、さながらITTのような走りでした。

その時、萩原選手の事を失礼ながら知らなかった僕は、萩原選手のある特徴に引きつけられました。


ロードレースは基本、他者との駆け引きなので、プロトンの中でも選手の視線は目まぐるしく移動します。

萩原選手の視線は、ずっと前方一点に固定され、一切移動する事がありませんでした。

独走だったので、全ラップ、全て連続で捕らえているのですが、どのショットを見ても視線はまったくぶれていません。

実際のITTを初めて見たのは、その半月後のTOJ堺ステージですが、ITTでも、選手の顔は固定されていても、視線はかなり移動するものです。


MAYUKO HAGIWARA: Cyclo Lovers Rock-9


萩原選手の視線は、ファインダー越しに見てもシャッターを押すのを忘れるぐらい、ひょっとしたら、彼女は瞬きもしないんではないか、と思えるぐらい、「入神」の域の視線でした。

MAYUKO HAGIWARA :Grave


集中力が極限に達した状態を、英語では

「ゾーンに入る」 “get in the Zone”

と表現します。

例えば、高レベルのアスリートは、よく、ボールや、他のプレイヤーが静止して見えるといいます。

MBAのマイケルジョーダンや、プロ野球の田淵幸一選手もその状態を証言しています。

それはなにもオカルティックな状態ではなく、

・集中力が高まる事により、脳内の情報処理能力、五感からのセンサー応答活動が極限になる。

・その状態では周辺事象の時間軸の流れより、脳内の処理能力の方が高くなる為、主観時間の経過は遅くなる。

という状態だと思われます。

アスリートの世界だけではなく、一般人でもこの状態は発生します。

試験勉強や仕事でのプレゼンテーション。
あるいは、気の合う友達と、興味のある話題を議論している時。

その時、まるで時間は静止したようになり、相手の切り出す単語一つ一つが、まるで、その言葉が発される前から脳に飛び込むような状態になり、会話の車輪が回る時も、「ゾーンに入っている」状態です。


レースの写真を撮影している時も、こういう状態を経験します。
一見「トランス状態」のようですが、意識が飛んでいるトランス状態とは異なり、ゾーン状態の時は、全ての行動は制御下にあります。
その時は、どのような活性化したプロトンでも、ワイドから対象を選択でき、また瞬時に露出を変更できます。
これも神がかった状態ではなく、継続し、繰り返した動作の蓄積と分析から、論理サーキットが形成され、一見跳躍した選択をしているように見えるだけです。


「ゾーンに入った」萩原選手の頭の中は、おそらくシナプスの爆発による情報の洪水と、それを冷静に眺める自我が共存しているんだと推測されます。

独走状態になっているからこその視線の固定ですが、世界レベルで競っている時、萩原選手の視線はどのように動き、どのように写るかとても興味があります。

しかし、その射るようで、同時に精緻で冷静な視線自体は変わらないのでしょうね。


MAYUKO HAGIWARA [3A-VA-VA-3A-A-FF-∞]

2010年12月23日木曜日

LOVE IS.

Flickrで

「サイクリストの肖像 NOT LOVE BUT AFFECTION」

を開始した2009年9月。

フランスからメールを頂きました。

“技術的に見るべきものはなにもない。
だけど、ライダー達への愛と敬意に溢れていてとても良い写真だ。
それは、写真にとって一番な事なんだ。”



このメッセージは本当に嬉しくて、僕の基準の視点になっています。


2010年5月。

写真を見た知人からメールを頂きました。

“あなたの写真は欲望にまかせて撮影していて、
被写体への愛も敬意もない。
被写体を蹂躙するだけ。
あなたの写真は、被写体も、ファンも、誰も望まない。”


このメッセージはかなり考え込んでしまいました。

「被写体への愛と敬意」

同じ価値を、この二つのメッセージはまったく真逆に評価しています。


「自分は写真を撮る時、その被写体に愛と敬意を持っているか?」


その時は、なにかそれなりの反応を返したはずなのですが、明確な自信を持って使った言葉ではありません。
おそらく、かなり狼狽して、手持ちの言葉を集めて組み立て、それで身を守ろうとしたんだと思います。


おそらく、写真を撮影する時に、誰もが被写体(人物であれ、自然であれ)に愛を感じるからこそ写真を撮るのでしょう。


報道関係者は中立的視点だと言われますが、やはり人間である以上、中立的視点というのは不可能で、なんらかの感情は出るはずだし、その感情が写真に色を与え、だから、報道の写真でも芸術性が認められるんだと思います。

凄惨な戦地や被災地でも、フォトグラファーはその現実も捕らえる一方、その中の人の美しい側面の姿も捉えます。


でも、それだけだろうか?



自分の内面を掘り下げていくと、そればかりではない側面も見いだす事が出来ます。
いろんな言葉で表現できますが、根本は


「良い写真を撮りたい」


というエゴです。

「愛と敬意に溢れた写真」

とはいいつつも、その根本的な原動力は「エゴ」です。

「相手の為を思い、相手の為に撮影する」

そういう人も、もしかしたらいるかもしれない。

例えば

「ロードレースを愛していて、その振興の為に撮影する」

とか。

それを考えた時、ふと思ったのは、僕はロードレース全体という視点で、レースを撮影した事がない。


いつも見ているのはライダーだけ。
それも、ライダーの1/1000 secの時間。

「サイクリストに対して愛はあるか?」

と訪ねられたら、それは自信を持ってあると答えられます。
彼ら彼女らの、鍛錬し、逆境に挑戦し、勝利し、破れていく姿は、本当に尊敬するし、美しいと思います。

でも、僕が向ける愛情のスコープは、その個人止まりで、どうしてもそれより上位の「競技全体」という視点では捉えられないのです。

その個人に向けているから、僕は撮影した写真をその人に見て欲しい、渡したいと思うんだと思います。


ある意味、写真は、僕にとっての「手紙」みたいなもの。
それも少年が深夜2時に書いた恋文のような、自分の内面をさらし出す恥ずかしい手紙。

僕は写真を始める2008年以前、ほとんど人付き合いというものはなく、他人に感心がなく、プライベートで人に話しかけるなんて想像もしたことがありませんでした。

写真を始めた事で、世間には自分以外にも人がたくさんいて、それぞれの価値で生きて、そして戦っている。

もの珍しくて観察し、どういう人なのか知りたくて、手当たり次第に手紙を書いている。

そんな状態でした。

コミュニケーションを知らない異星人が、写真という交信手段を手に入れたようなものです。

それもスパムメール並の勢いで。

それは第三者から見たら、とても奇異で、愚かで、相手の気持ちを無視した行為に見えたかもしれません。

それはコミュニケーションとはいいつつも、一方的に自分から発信するブロードキャスト。
エゴから発生する行為です。愛があったとしても。

2010年6月

京都で開催された写真展「PEDAL STORIES」で、フォトグラファーの竹之内脩兵さんとお話する機会がありました。


“どんなに素晴らしい写真でも、遠くから相手を撮っているばかりだと、それは「盗撮」と同じだと思います。
相手の前に自分を晒し、そこでガチでせめぎ合ってこそ、なにか価値のあるものが生まれるんだと思う”




彼のこの言葉はとても印象的でした。

人を撮影するのは、やはり、どんなに言葉を飾っても、その人の権利を侵害する行為である事には代わりはありません。

僕は自分という存在を隠す事で、その人の自然な表情が捕らえられる、と考えていました。
でも、やはり、それで撮影した写真に自分はいない。少なくとも、自分の思いは入っていない。


僕はとても単純なので、その言葉を直球に受け取り、自分から声をかけ、話をし、そして、正面から相対して撮影しようと思いました。

今までは、それは単なる記念写真で、価値はない、と思っていました。
でも、愚直なこの方法は、確かに自分が働きかけないと出来ない。
逃げる事と言い訳は出来ない。

少なくとも、自分が撮った写真だと言える。


2010年8月

自分のエゴに気づきながら、そのエゴを消化できないまま、シマノ鈴鹿ロードに行きました。

あるチームのライダー達を撮影する為です。
春からメールでチームと交信を続け、自分の写真を説明し、じっくり関係を醸造してきただけに、その撮影はとても楽しみでした。

とても喜んで頂けて、言葉を交わし、それぞれポートレイトを撮影しました。
それは、今年、長い間、自分が模索していた、

「相手に受け入れられた上で、正面から撮影する」

という行為です。

とても自然な表情で、それはある意味、自分が理想とする撮影でした。

でも、それと裏腹に、心は晴れません。

ライダー達は僕を信頼してくれている事が表情から伝わります。
それは、時間をかけて説明したからこそ出来た事です。

でも、その撮影の動機は、

「より良い写真を撮りたい」

というエゴだと気づいているので、その信頼に対して、後ろめたいような、申し訳ないような複雑な気持ちでした。



2010年10月

世界選手権に行く予定が、交通事故に遭遇し、自宅で療養を続けていました。
今年中にロードレースの撮影をするのは不可能と考え、ベッドの上で、今年撮影した写真の整理をしていました。
タグをつけていく時、ふと思って、今年、話をして、正面から撮影したライダー達の写真を並べてみました。

豪快に破顔している顔
はにかんでいる顔
少しとまどって、硬い表情になっている顔
僕が言った冗談に吹き出している顔


見ていると、それぞれ撮影した瞬間の事を、すごく些細な事まで思い出します。

光の加減
風や空気の流れ
周りの音
話す時の視線の動き
話した内容


確かに同じフォーマットで、笑顔が並んでいるだけです。
そこから、いろんな情報を読み取れるのも、たぶん、フォトグラファーだけ。

でも、そこには、紛れもない、自分が写っているんです。

アイウェアに反射して。
瞳に映って
僕の話に興味を示して
僕の冗談に破顔して


それは、きっかけはエゴであるかもしれないけど、その人との時間を共有し、話をして作った、紛れもないコミュニケーションです。

泥臭く、野暮で、直球な方法だけど、それは明らかに

「愛情を表現している」

と言えると思います。


なんて遠回りで、面倒で、大げさな手紙(笑)

でも、結局、自分がした事を、最後に自分が納得出来るのは

「悔いがないぐらい真剣に考えて、そして手を動かしたか」

だけなのかもしれません。


いろんなSmilesを見ながら、そんな事を思っています。


Happy Christmas.


23-Dec-2010

kiguma



FUMIYUKI BEPPU :Le Blanc Suprême-11 
Retired KEIRIN RIDER
CRAZY FOR BASSO
SHINICHI FUKUSHIMA:  Le Blanc Suprême-67
YOSHIMITSU HIRATSUKA: Le Blanc Suprême-78
HIDENORI NODERA  : Le Noir Suprême-64
TAKASHI MIYAZAWA : L'icône de blanc
CLAUDIO CORIONI  :Le Blanc Suprême-97
OSAMU KURIMURA : le Rouge.
KENSHO SAWADA  :le visage
SAKIKO SATO : Le Blanc.
HATSUNA SHIMOKUBO : Le Blanc.
WAKA TAKEDA :Le Blanc.
AYAKO TOYOOKA :Le Rouge.
MOTOI NARA   : Le Blanc Suprême-87
HISAFUMI IMANISHI :Sorrisi/Sonrisas
COLON
TIME KEEPERS
Sign
CHIKA FUKUMOTO : cantabile (take-2)
SAKIKO SATO : expressivo(take-3)
YUKIYO HORI :vivisimo
FUMIYUKI BEPPU :vivo
YUKIHIRO DOI :stringendo
TARO SHIRATO :con anima
HIDENORI NODERA :pomposo
YUKIHIRO DOI [Le Visage]
CHIKA FUKUMOTO : Cantabile
YOSHIYUKI ABE : brillante
KANSAI-CYCLO-CROSS St-4 BIWAKO42

2010年12月21日火曜日

THE ROSE

豊岡英子選手の走りを始めて見たのは、シクロクロス全日本選手権2009(金沢)でした。

AYAKO TOYOOKA :piano forte

シクロクロスを見る事じたい始めてで、選手の事はまったく知りませんでした。

でも、始めて見るシクロクロスはとても刺激的で美しく、すぐに魅了されました。

被写体としては、自分に一番向いている競技だと思っています。

豊岡選手はその大会で優勝して5連覇。

その圧倒的実力は見ていて気持ちが良いぐらいでした。

レース後、様々な方に教えて頂きながら、少しづつ選手の名前を知り、その時に豊岡選手のブログを通じてコンタクトを取り、ブログで写真を使っていただいて、とても光栄でした。

とてもサバサバした気持ちの良い文面の豊岡選手。

2010年初戦の熊谷クリテリウムも圧倒的な実力でねじ伏せ、とても印象的でした。

6月の全日本直後、ブログとTwitterで怪我の為に暫く休養すると宣言されました。

プロアスリートには怪我はつきものでしょうが、ある意味、それは選手としての生命線と直結しているので、長期離脱する時の不安感は相当な物であったと推測します。

そして、8月下旬の鈴鹿ロード。

豊岡選手はウィラースクールの講師として参加してらっしゃって、偶然、会場で短い間、お話を伺う事が出来ました。

始めてお話した印象は、

「とても繊細な方」

という印象でした。

話される言葉の選択は慎重で、丁寧に床に卵を置いていくように話されます。

ポートレイトの撮影をお願いすると、快く引き受けてくださいました。

最初のショットは表情が硬く、2枚目は僕が冗談を言って、若干表情が緩んでいます。
そういう時って、粘って表情を捕らえようとする人もいるのかもしれないのですが、僕はその表情がとても好きでした。

その時の、豊岡選手の心情でもあると思うからです。

AYAKO TOYOOKA :Le Rouge.

ポートレイトは単体で完成された作品ではなく、人間である以上、その人の人生の時間での流れを記録する作品でもある、と思っています。

人間は人生のどの部分を切り取っても、喝采に囲まれているわけではありません。

むしろ、華やかな側面なんて、ほんの数パーセントで、後は暗く、葛藤にまみれ、地を這うような苦悩に囲まれている事が多いでしょう。

12月の全日本シクロクロス。

豊岡選手は優勝され、全日本6連覇を達成。

そこに至る苦悩や葛藤は、当人でしか分からない。

ただひとつ。

レースが終わった後、多くの女性のファンの質問に丁寧に答え、ご自身からポーズをとられ、皆に微笑むその表情は、今まで見たどの瞬間よりも、人間としての奥行きが感じられ、嫋やかで、とても美しい表情でした。
AYAKO TOYOOKA :Cantabile

プロアスリートは成績が全てであり、それは否定できない現実です。
でも、そこへ至る、身をよじるような苦悩と葛藤、そして、その修羅に潰されていった多くの血。

それらがあるから、やはり成績は美しく輝いて見えるんだと思いました。

冬を雪の下で種で過ごし、春に咲く薔薇のように。

AYAKO TOYOOKA : THE ROSE

2010年12月20日月曜日

Body & Soul

「健全な肉体に健全な精神が宿る」




子供の時、この言葉はとても嫌いでした。

主な理由は「健全な精神」という言葉です。

「健全」という言葉は、とても傲慢な目線で、つまり、大人の世代に都合良く見える状態を「健全」という枠に当てはめているように感じていました。


今年9月に交通事故に遭遇し、被害者として現在リハビリを続けているわけですが、その状態になって始めてこの言葉の持つ意味を感じます。

でも、僕が感じた意味から、正確な言葉に翻訳してみると



「健全な肉体は、精神の色や形の選択オプションを持つ」



という事になります。


当初一週間、ほぼ寝ている事しか出来ず、寝返りも、くしゃみも出来ない状態でした。
世の中にはもっと辛い状態で闘病していらっしゃる方がいるでしょうが、その状態であっても、前向きな考えを維持するのは努力がいる状態でした。

体の自由がきかない、という事は、確実に、自分の可能性の選択肢が狭まっている状態です。

診断の結果、二ヶ月で怪我は回復する、と聞いていても、人間の想像力は、現状を足がかりするしかなく、やはり不安と、世界からの孤立を感じずにはいられません。


11月中旬からリハビリを開始し、12月から職場にも復帰。

そして、12月11日~12日に、全日本シクロに撮影に行きました。

正直、現状の体力で、全日本レベルのレースを撮影する事に不安はあったのですが、いろんな人に回復した状態で挨拶したいと思ったのと、事故により、自分の撮影スタイルが、どのように変化したのか見届けたい、という思惑もありました。



写真の撮影には体力がいる、というのは良く聞く話です。



一般には、重い機材を運搬する為の体力と認識されています。

でも、僕が考える体力の必要性は

「長時間、高レベルの集中力を維持する為」

だと思っています。


レースの撮影では、以下の作業を延々と繰り返します。


  • 天候と光量を読み、露出設定を変更する。
  • 被写体に対して、瞬時にフレーミングを決定する。(構図、倍率)
  • フォーカスポイントを設定する
  • フォーカス距離ロックを変更する。(使用レンズにより、この操作は異なる)
  • プロトン通過時、瞬時に次のAFポイントを選択し、AFロックをかけ、シャッターを押す
  • プロトン通過時にメディアの残量をチェックする。



以前、ジムでダンスのレッスンを受けた時、講師の方の動きを見ていて、全身、そして指先まで神経を通わせて、柔軟に制御する凄さを感じました。

意志で体をコントロールできている状態です。

アスリートはこの状態に体を持って行くのでしょうが、ダンサーの動きを目の当たりにすると、それを強く感じました。

カメラはダンスに比べると、操作する範囲は狭く、その操作自体は容易ではありますが、

・ダンサーは意志で体を制御する

のに対して、

・フォトグラファーは意志で光を制御する

と言う事が可能かと思います。

先に述べたカメラの操作。
あれは考えながらしているのではありません。

天候を見て、光の状態を意識し、プロトンが活性化しているのであれば、各選手が、次にどのように動くかを推測する。


インプットからアウトプットは、ほぼ瞬時で、反射的です。


その状態は、一種トランス状態に近いともいえ、感覚を維持する為には、高度な集中状態を維持しなくてはいけません。

でも、そのような集中状態を維持するのは、とてもコストが高く、全日本ロードに至っては、ほぼ6時間に渡る状態の維持が必要で、その土台は体力です。


基礎となる体力がないと、集中力は消え、今までは気にならなかった周りの騒音や、空腹感や、疲労感が襲ってきて、それがノイズとなり、ミリ秒単位の判断が出来なくなります。



そう、シンプルに言えば、健全な肉体が必要な理由は、

「判断が出来る土台」

であるからです。

肉体に異常がある場合は、全ての判断が、受け身で、付け焼き刃になってしまいます。
そこに意志の判断が介入する余地はありません。


健全な肉体が、自動的に、健全な魂を生むのではなく、最善な判断を可能にするのです。

でも、「判断する力」こそ、「健全な魂」だと思います。

与えられた価値観に盲目的に従うのは、判断を放棄した不健全な状態ですよね。

健全という判断が、相対的な価値観でしかなく、失敗から学び、状態を監視する判断こそが、唯一信頼でき、意味のある価値だと思います。


THE SMOKE WALL

2010年12月19日日曜日

Metamorphosis

武田和佳選手は、撮影するたびに、とても印象の異なる方です。

チームのプロフィールの写真では、年齢より、かなり大人びて見えるのですが、

・全日本ロード2010
・シマノ鈴鹿ロード
・全日本シクロ2010

それぞれ、まったく印象が異なり、特に、レース中の表情だと、とても幼く見えたりします。

鈴鹿でポートレイトを撮影した時は、それほど話す事がなく(唯一、ヴィスコンティのような表情をしてください、と伝えたのみ(笑))、ゆっくりお話が出来たのは、全日本シクロの会場でした。

全日本前日の関西シクロ。
会場で、武田選手は、キヤノンの1Dというプロ用のごついカメラを持って撮影していました。

「カメラお好きなんですか?」

「いえ、お父さんに撮影頼まれて(笑) お父さん、次々になんか買っちゃって困っちゃうんですよ」

そういいつつも、楽しそうに撮影される武田選手。


先ほどの「印象の変化」について伺ってみると、


「確かに、皆から、全日本で撮影された写真だと、とても幼く見えると言われました(笑)」


鈴鹿の時も、マイアミの時も、どちらかというと、緊張されるタイプのようで、正面から撮影した写真は、表情が硬いのですが、ポートレイトの面白いところはそこだと思います。

撮影者は、やはり表情を要求したり、作ったりしてはいけない。


会った時の状況を再現するのがポートレイトだと思うので。

先ほどのヴィスコンティの例では、緊張を和らげるための会話をしましたが、それは表情を作るというよりも、相手に信頼してもらうためのプロトコールのようなものです。


マイアミのでの会話の中で、今回の結果で、世界選代表にかなり近づけそう、と嬉しい反面、少し緊張した表情で話されていました。

結果は6位。セレクションのポイントを獲得されたそうです。

武田選手にとって、その結果の価値はどうだったのか、それは分かりません。

しかし、レース中の集中した視線はとても印象的で、彼女がこのレースに賭けている事を物語っていました。


今回も、また初めてみる表情でした。


2010年12月19日 9:24

WAKA TAKEDA :Vivace

KANSAI-CYCLO-CROSS St-4 BIWAKO56

WAKA TAKEDA :Adagietto

WAKA TAKEDA :THE ROSE